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「……行ってほしくない」
ケリーの手が、辰弥の手に触れる――そこにいたのはもう商売人の「ケリー・ウォン」ではなかった。一人の男の身を案じる、ただの一人の女がそこにいた。
「……さっき言った大量注文のことだけどね……あれは結城の注文なの。こんなことになるなら、あんな奴に売ったりしなかったわ……」
「ケリー……」
ケリーの手は震えていた。本気で辰弥のことを心配していることが伝わる。
ケリーはこれまで何度か女の顔を辰弥に見せてきた。ケリーの思いは嬉しかったし、辰弥もケリーを好ましくも思っている。だが、愛せなかった。それはケリーに対してだけのことではない。これまでの人生、誰かを本気で愛せたことが無かった。誰かを愛しそうになると、決まって妙な後ろめたさが胸に広がる。もしかしたらあの夢のせいかもしれない。ただの夢だから無視してしまえばいい。そう思っているのに、いつまでも夢の中の白髪の少年が気になって仕方なかった。
「……あぁ、そうだ……代金を……」
ケリーの手から逃れるように辰弥は立ち上がった。
「いいわ。お金は戻ってきてからでいい」
ケリーは力なく微笑む。本当は無理にでも引き留めたいという思いが、その瞳の奥で揺らいでいるように辰弥には見えた。
「……だから、無事に戻ってきて」
「あぁ、わかった」
辰弥が微笑むと、ケリーは少し安心したように息を吐く。
「後、これはサービス」
そう言うと、ケリーは煙草を一箱机に置いた。見慣れない銘柄のその煙草はすでに封が切られている。
「お前のお古か? というか煙草吸うんだったか?」
「貰ったから試しに吸ってみたの。全然おいしくもなかったからあげるわ」
「俺は両切りしか吸わないんだよ。知ってるだろ?」
「えぇ、でも持って行って」
よくわからないケリーの押しの強さに負け、辰弥は貰った煙草をウエストポーチにしまった。
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