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 鼻孔を埋め尽くすような油の匂いの中で、風が流れるのを感じた。絵具がすぐに乾いてしまわぬよう、窓を締め切っているのにである。そうなると、原因は一つしかないだろう。部屋へと入る扉を、誰かが開けたのだ。 「宗二郎。描いているかね」  まるでヴァイオリンの音ような重厚さを伴った声。落ち着いた響きが、聞いていてとても心地よい。――振り返ると、旦那様がそこにいた。 「旦那様……」  学校をやめ、貧乏画家として食いつなぐのに必死だった自分を拾ってくださったのは、かつてこの地区で豪商と呼ばれた瀬尾長政(せおながまさ)様だった。  帰る家などとうに無い、金もない、技術もない。それなのに、住むところも、画材もなにもかもを与えてくださり、感謝してもしきれない。とてもその名前を呼ぶのも畏れ多く、この腕はこの方の為にと思ったからこそ僕は『旦那様』と呼ぶ。 「窓も扉も締め切っていると気分が悪くなるだろう」 「油が……乾いてしまうので。……すいません」  素直に窓を開け放つことができればいいのだが、絵具が早めに乾くと筆の運びが覚束なくなる時がある。旦那様の申し出を断ったことと、自分の技量の拙さで、思わず謝罪の言葉を口にしてしまう。
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