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壁にも至る所に細い亀裂が入っているし、自分が新患だったなら、こんな病院、きっと足を踏み入れただけで不安を覚えるだろう。
研修医時代、都内の高度医療センターで最新の医療機器に囲まれて過ごしていた英司にとっては、正に天と地、雲泥の差だ。
この数田美町に戻らず、そのまま最先端の医療機関に留まっていた方が、より多くの症例に立ち会えただろうし、医者としての経験も積み重ねられたに違いない。
それでも英司は、研修期間を終え、更に一年間医療センターに勤務した後、生まれ育ったこの町へと戻ってきた。
父に、跡を継げと言われたわけではない。
そもそも父は、英司に医者になれと言ったことさえ、一度もなかった。
子供の頃から何でも物事は即決するタイプだった英司は、曾祖父、祖父、父が皆医者だったこともあって、自分も当然のようにその道に進もうと思っていた。
昔からあれこれと悩む時間が好きではないので、出来る限り迅速に、かつ最良の判断を求められる医者という職業は、自分の性格に合っている気がしたからだ。
だが、そんな英司が人生で初めて、モヤモヤとした悩みに直面することになった。
今から五年前。
商店街で鮮魚店を営んでいた市川家の娘が、二十五才の若さで乳がんであることが判明した。
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