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名前も思い出せないけれど、母が連れてきた数えきれない男の中で、芳とまともに話をしてくれたのは彼だけだった。その彼を、芳は父だと思っている。
本当のところは聞いていないのでわからない。ただ、彼が自分の父親であって欲しかったからだ。
将来自分の店を持ちたいと言っていた父は料理が得意で、台所になんて立つことがない母と違い、アパートに来るたびに料理を作ってくれた。父が居た期間だけは、芳は飢え知らずだった。
母は手伝うことすらしなかったが、父は興味津々で見ていた幼い芳に料理を教えてくれた。
初めて教わったのは、玉子焼き。
目玉焼きすら母に作ってもらったことがなかった芳は、器用にフライパンでクルクルと玉子を巻いていく父の手つきに見惚れ、同じように出来るようになりたくて何度も何度も練習した。
野菜の切り方や出汁の取り方。煮物の火加減に、油の温度の測り方───いつの間にか一通りの料理がこなせるようになった頃、父は忽然と姿を消して、それっきり戻ってくることはなかった。
その頃には芳も小学生になっていたが、参観日は勿論、個人懇談や運動会などの行事にも、母は一度も顔を出さず、学校や市の人間が何度もアパートへやって来ていた。
毎回母はそれらを適当にあしらい、面倒になれば住まいを移す。
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