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朝起きると、僕が昨日着ていたスーツもシャツもアイロンがかけられてピカピカになっていた。朝御飯といいスーツといい、彼の完璧なもてなしっぷりに僕はもう言葉も出ない。高級ホテル顔負けである。
本当に昨日と同じスーツなのか疑いたくなるほど綺麗になった袖に腕を通し、鞄を持って出勤の支度をする。
他人の、しかも昨日知り合ったばかりの人の家からの出勤なんてもちろん初めてのことで変に緊張してしまう。
今度何かお礼しなくちゃ。昨日青年にも散々お礼は何がいいか聞いたけれど、「好きでやってるからいらない」の一点張り。だけれどここまでお世話になっておいて、そういうわけにもいかない。昨日一晩話していて唯一分かったのは、青年は夜が好きなのだということだけだった。それだけじゃお返しのヒントとしては余りにも心許ないが、またここに来るまでに何かゆっくり探してみよう。
そんなことを考えながら一階に降りて赤い扉へ向かうと、後ろから爽やかな声が飛んできた。
「あ、ちょっと待って。せめてネクタイだけでも替えていかないと」
「え?でも、」
「ちょっと失礼しますねー」
「え」
そう言って鮮やかな手つきで僕の安いネクタイをするりと外すと、彼は別のネクタイを結んでくれた。深い夜色の、生地からしてとても高そうなネクタイだ。深い夜に朝が近づくように、濃い青から浅い翠がかった青へと少しだけグラデーションになっている。そしてワンポイントで、裏側に小さく三日月のマークが入っていた。
「あの、これは?」
「貴方にピッタリかと思って」
「いやいやそんな!お借りするわけには」
「いいんですよ。ネクタイまで同じだと、何処かで酔い潰れて朝帰りでもしたのかと思われちゃいますよ?特に女性はそういうのに鋭いですからね」
「はあ…ありがとうございます。ではまた来た時にお返しします」
僕がそう言うと青年は何も言わず、少しだけ目を見開いた。それからとても嬉しそうに笑った。大人っぽい妖艶な微笑みとは全く違う、心から嬉しそうな、少しあどけない笑顔だ。
ずぅっと欲しかったおもちゃを買ってもらえた子供の無邪気な笑顔、という例えがぴったりかもしれない。
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