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「では、行ってらっしゃい」
「えと、行ってきます…?」
自宅ではない所から、普段は着けない高級な夜色のネクタイを締めて会社へ向かう。本当に変な気分だ。
緊張で少し強張った右手が、赤い扉に手を伸ばす。本当に不思議な一晩だったなぁ。ここを出ると、また現実に戻るのかな。いや、そもそもこれは現実なのかな。なんて、馬鹿げたことを。だけどそれくらい、夢のような一時だった。
正直離れ難いけれど、会社に行かなくては。すると扉を開いて外に出ようとする僕の身体を、もう一度引き止める彼の声がした。
「ちょっと待って」
何だろう。忘れ物かな。振り向くのとほぼ同時に、唇にふにっと柔らかい感触。
一瞬のことで何が起きたのか分からなかったけれど、数秒して漸くキスされたのだと理解した。唇と唇が軽く触れ合うだけの、バードキス。一秒にも満たない、本当に軽いキスだった。
「今はこれだけ、許してください」
緩やかな三日月形の唇に軽く人差し指を当ててウィンクし、悪戯っぽく微笑む青年。彼の動きに合わせて、銀の髪がさらりと揺れる。朝陽のもとではまた違った輝きを見せるそれは、風と共に一瞬だけ僕の頬を擽って離れた。
「………え、あ、今…あ、あの?!」
何をされたのか理解した瞬間、顔に一気に熱が集まるのを感じた。行為の名前は理解出来ても、青年の意図は一向に理解出来ずに困惑する。
…何でこんな僕に。はっ、もしかして…挨拶か?外国の挨拶の一種とかか?!
混乱したままの僕を見て青年はふっと目を細めると、優しく、本当に優しく僕の頭を一回撫でて宥めた。
…確か今日視た夢の中でも、こんな風に誰かに頭を撫でられていた気がする。
この数時間でもう何度も見た青年の笑顔は本当に柔らかで、愛しいものでも見ているかのようなその甘さにまるで自分が愛されているかのような錯覚に陥ってしまう。
「…また、お越しくださいね」
青年が手を離した。静かに唱えられた言葉はまるで呪文のようで、すっかり青年と同じ匂いになった僕の身体にゆっくりと広がり、すうっと深くまで染み込んでいった。
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