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それから青年は徐に、壁際にあるあのグラデーションの棚に近づいた。少し屈んで顎に手を当て、何やら考えている様子を見せる。
やがて色とりどりの小瓶の中からひとつを取り出し、僕に見せた。一挙手一投足がやけに優雅で、彼が振り返った瞬間さらりと揺れる銀の髪一本一本にまで見惚れてしまう。
「貴方には、そうですね。こちらがお似合いでしょう」
そう言って青年が差し出した小瓶の中には夜空があった。そう、夜空だ。
外灯も何も無い真っ暗な山奥で寝転がって見上げた時のような、夥しいほどの星が散りばめられた夜空。
何てことはない、よくある魔法の一種だろうと思って僕はさして気にしなかった。
「魔法」の存在を信じている訳では無かったけれど、この店の不可思議な空気に馴染み始めた僕の感覚もおかしくなってしまったのかもしれない。
だってこれだけおかしなものが揃っている店内に、小瓶に閉じ込められた夜空があったって何も不思議なことはないじゃないか。
ただじいっと見ていると、小さな夜空の真ん中にぽかりと浮かんでいるオレンジがあることに気づいた。
これはきっと、月だ。欠けている、月。
三日月だ。
僕には昔からこれが笑っている口に見えて、見上げる度にまるで馬鹿にされている気分になったものだ。
不思議の国のあの森で、消えては現れるシマシマの猫のような。そんな奴に、嗤われている気がして。「偉さが違う」なんて知るものか、と幼い僕はそう思っていた。
しかし青年の色白の手の中で控えめに光るその三日月はずうっと見ていても全く嫌な気分にはならなかった。
それどころか、時間すらも忘れてずっと眺めていたくなるほどだ。
それほど美しいか、と問われれば分からない。
その月は確かに綺麗なものではあったが、「美しい」という言葉だけで全てを表すには少し不十分な気がして、同時に「懐かしい」とか「寂しい」とか「優美」だ何て言葉も浮かんでは消えた。けれどもやはり乏しい僕の語彙力では、その月に「美しい」以外の最適な形容詞が見つからなかった。
小学校の頃先生が本をたくさん読むと良い、と言っていたのが今になって何となく思い出される。
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