パンとクローバー

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「なるほどな、そんな花だったのか」お爺さんがううむ、と唸る。「この本を読んでみたんだが、どんな花かよく分からなくてな」 「ああ、それはそうだと思います。だってその題名、元々その花に込めた意味なんてなかったんですから」  俺がそう言うと、お爺さんは目を丸くしてこちらを見てきた。先ほどまでの疑い深そうな色は消えている。 「題名に意味が、ない?」 「そうです。正しくは、『適当につけた』と言ってもいいかもしれません」  淹れたてのコーヒーができたらしく、観月さんが細口のドリップポットを持って俺たちの席に来た。片手にはもう一つ、別のコーヒーカップ。俺の分まで淹れてくれる気らしい。その優しさに、心がじんわりと暖かくなる。 「え、でもだってあの夏目漱石よ? 題名適当につけるなんて」  コーヒーを淹れながら、観月さんも会話に加わってくる。 「ある時、漱石は散歩中に花を買って、花屋にその花の名前を聞いたら虞美人草だと教えてもらったそうです。ちょうどその時小説の題名を考えている最中だったから、いいかげんながらこの名前を借りることにした、って本人言ってますから」  一気にしゃべったせいで、のどが渇く。俺は目を丸くする二人を前に、言葉を切って観月さんが淹れてくれたコーヒーを啜った。喉に心地よい、香ばしい匂いが滑り落ちていく。
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