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この家も、ずいぶんガラッとしたものだ。ふたつき前、弟が母の放蕩に呆れた叔父に引き取られ、今、私もこの家を後にしようとしている。元々荷物は皆無だったけれど、こうしてみると、意外と広く見えるものだと思う。真冬だというのに、リビングには暖房すらつけられていない。つん、とした寒さが部屋を、一段と無味なものにする。
「アンタはアタシの娘なんだから」
口角から、泡を飛ばして母は言う。血走った眼は、まるで獣のようだった。
「うん、そうだね」
私は荷づくりをしながら、そう言った。
「アタシの所有物が何勝手に荷物詰めてるの、やめなさいったら」
「うるさい」
頬にビンタを一発貰う。私は何事も無かったかのように、荷物を詰めて立ち上がる。
「あんた、何も分かっちゃいないのよ、何も解っちゃいないのよ!」
「だったら?」
「アタシがあんたを十六年間、どんな思いで育ててきたか!どんなに苦労して育ててきたか!あんたは何もわからないのね」
私は静かに首を振る。もう一度ビンタが飛んでくる。左の頬が、擦り切れたように痛かった。
「アンタは子供が親にとってどんなものか、わからないから出て行けるのよ。子供ってのは、親の生きてきた証みたいなもんでしょ?アンタはアタシの人生なのよ、わかる?」
再び静かに首を振る。母の平手が右の頬へと振りかざされて、そのまま母は泣き出した。
わからない。
私はあなたのためだけに、産まれてきたかったわけじゃない。生きていたいわけじゃない。
「それって、あんまりだよ」
「あんまりなのはアンタよ、ふざけんじゃないわ」
もう、平手は飛んでこなかった。代わりに、真っ赤な母の二つの目が、私を射殺すように凝視している。
「じゃあね、お母さん」
私はカバンを肩にかけ、玄関へ向かって歩き出す。
それで、それでどうしたんだったっけ。玄関で、お母さんは私に何かしたような気がする。確か、何かを私の唇に・・・。けれども記憶はもう既に、微睡の中に消えていた。ほどなく意識も消えてゆく。三月の午後の陽だまりは、私を優しく包みこみ、夢の中へと連れてゆく。
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