1. 目が覚めると。

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 目が覚めると、ひなみがいなくなっていた。  毎朝、シングルマザーである楠順子は陽が昇って間もない頃合いに目覚め、傍らでまだ健やかに眠ったままの幼い日南の寝顔を見るのが日課だった。  この寝顔を見ればその1日を頑張れたし、夜寝る前、目覚めた後に見るその顔を想像して、暗い気持ちが差し込むのを防いでいた。  それが、そんな日常が、ある日突然、壊れた。 「ひなみ!」  身体を起こして、部屋を探し回る。  一気に覚醒した。狭いワンルームで、トイレとお風呂場以外に探すべき場所もなく、順子はただ、ベランダや風呂場、玄関を何度も行ったり来たりする。  激しく混乱していた。どうしていいのか、わからなくなっていた。 「ひなみ!」  もう一度叫ぶようにひなみの名前を呼ぶ。隣の部屋の住人への気遣いなど、欠片も念頭に浮かばない。少しして、壁を殴りつける耳障りな音が朝の静けさの中に浮かんだ。  その音を耳にしても何の感慨も浮かばなかった。呆然として、寝ぼけているような錯覚をおぼえる。  現実逃避がはじまったのかもしれない。世界の輪郭がぼやけ、知覚が鈍る。  気付くと冷たい床の上にへたり込み、何度も顔を撫で回し、髪を掻き上げることを繰り返していた。  こんなことしている場合じゃない。早くひなみを探さないと。  意気消沈しかけた気分を無理矢理引っ張り上げて、立ち上がると同時に、 「ピンポン!」  安っぽいインターホンの音が部屋にこだました。  何事かわからず、一瞬だけ固まる。  でも次の瞬間には玄関に向かって駆け寄っていた。  こんな朝早くに訪問してくる人物などいない。夜中にひなみがぐずったりしたとしても、両隣の隣人は壁を殴ってくることこそあれど、訪問してきて文句を言いに来るような人間ではなかった。  緊急の用があるような知人も友人も、近親者も、順子にはいなかった。  冷静に考えれば、無闇にドアを開けることは得策ではないはずだった。  それでも。  順子にはその冷静さが欠けていた。  自分の安否を含めて、他のことなど関係ない。  ただひなみのことしか、頭になかった。  それぐらい、ひなみは順子にとってのすべてだった。
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