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「僕はいつか、あなたを名前で呼びたいのです」
トルソーの正面に回った柳瀬は、彼にかけたネクタイの結び目を整える。
シャツを着せることを失念していたが、柳瀬は彼のそばを離れたくなかった。
結び目を喉元まで押し上げると、どこか滑稽でユーモラスのある出で立ちに、彼は変貌した。
「あなたは――」
柳瀬はネクタイを引き寄せ、トルソーの腰に手を回す。
「――僕を抱いてはくれないのですね」
答えは何も返ってこない。彼はトルソーなのだから。
柳瀬がこの一体のトルソーに惹かれる理由はいくつかある。ひとつは伊与田の愛用品であったことだ。
長年使われて布地の部分は何か所かほつれており、色も全体的にくすんでいる。
倉庫入口近くに置かれたマネキンやトルソーたちは新しく、色つやの差も歴然であったが、柳瀬の琴線には引っかからなかった。
ふたつめの理由は専門学生時代に使っていたトルソーと瓜二つだったからだ。そのトルソーは、柳瀬が初めて性に目覚めた相手でもある。
そのトルソーを想い、夢に出てきたことだって一度や二度じゃない。
柳瀬にとっての彼は初恋の相手でもあった
そして最大の理由は、このトルソーだけが倉庫の隅に埃をかぶったまま、たたずんでいたからである。
伊与田にとって、この彼は用済みであったのだ。
柳瀬はその姿に故郷にいる両親を思い出した。
幼少期から少年期は、苦い記憶に埋め尽くされている。
倉庫の奥で彼を見つけた日、柳瀬は彼のためにスーツを作ると決心した。
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