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夜半過ぎ。柳瀬は仮縫い状態のスーツを手に、店の奥の倉庫へ向かう。柳瀬が手にしているものはディスプレイ用のトルソーに着せるための試作品のスーツだ。
伊与田は言う。体型が変わってしまう人間よりも、いつまでも同じ形のトルソーに着せるスーツを作るところから始める。
柳瀬は伊与田の意見に賛成だ。ミリ単位の精密な技術が求められるテーラーになるために、こなすべき最初の課題だと思った。
柳瀬はトルソーのためのスーツを、もう五年も作り続けている。柳瀬個人としては人前に出してもおかしくはない技量が身についたと自負しているが、伊与田は厳しかった。伊与田は柳瀬のスーツを高く評価しているものの、応用を利かせることは難しいと判断しているようだ。
柳瀬は伊与田の評価を重く受け止めているが、心のどこかで、このままトルソーのためにスーツを作り続けてもいいのではないか、と思い始めている。柳瀬が「彼」に出会ったのは、そんなときだった。
勤務時間外に倉庫へ足を運ぶことを伊与田は知っているが、あえて黙認しているらしい。
柳瀬は伊与田の心遣いに感謝しているが、ひとつだけ、どうしても伊与田に打ち明けられない秘密がある。
それは柳瀬の性的指向に関することだ。
柳瀬の性的指向を体現するものが、この倉庫に眠っている。ぎいーっと扉をきしませた柳瀬は、倉庫の中へ入った。
途端、視界に入る物は無数の人影――真っ白のマネキンやトルソーの群だ。体型や欠損された部位に差異はあるものの、倉庫を埋め尽くすように彼らは存在していた。
柳瀬は彼らの間をすりぬけ、さらに奥へ向かう。そこにはもうひとつ扉があり、柳瀬の目的はその中にあった。
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