「遠き山に日は落ちて」

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「遠き山に日は落ちて」

 眠っているところを起こされた。  路面電車の都電荒川線。和巳(かずみ)はいつも早稲田駅から乗ってくるが、史(ふみ)は学習院下駅で待つことが多い。夕刻に流れる『遠き山に日は落ちて』のメロディを聞いたくらいまでは覚えているが、その後はうとうとしてしまったようだ。和巳に起こされるまでの記憶がない。 「よくこんなところで寝られるよな」  和巳は呆れたように笑う。この駅は明治通りと新目白通りの交差点の側に、交通量は激しく、おまけに電車が何度も目の前を往来していく。しかし、史は、この喧騒が殊の外好きだった。加えてこの小さな駅のホームは、何に囲われている訳でもないのに、何故かエアポケットに入ったように感じられて、とても居心地が良いのだった。  和巳は夜間部なので、大体帰りが遅い。史は先にアパートに帰っていてもいいのだが、いつもついフラフラと寄り道をしながら時間を潰して、最後はこの駅で彼を待つことにしていた。携帯のない時代。史にとっては、いつ来るとも知れない和巳を待つこの時間が、一番幸せだった。それに、先に帰って夕飯の仕度をして待つような、そんな所帯じみたことはしたくもなかった。     
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