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変化
その日の夜である。私は夕食を食べに書斎を出て我が家のダイニングルームへと向かった。まだ妻が不機嫌かと案じていたが、意外と彼女は機嫌が良かった。
そのことで私はほっと胸を撫で下ろすと同時に驚きでもあったのだが、そこにはもっと驚かされることがあった。食卓に蟷螂神社でもらったイナゴが乗っていたのだ。
「あれ?イナゴ?嫌じゃなかった?捨てようと思ってたのに」
「うん。最初は気持ち悪かったんだけど、良く考えてみたらこれだって日本人にとっては伝統的に食べ物なのよね。ほら、食べ物を粗末にするのは良くないじゃない?そう思ってどんな味なんだろうって、一匹食べてみたの。そうしたら普通に佃煮の味がするじゃない。なあんだ、これなら川エビの佃煮と変わらないなって」
「そ、そうなんだ。それならいいんだけど。でも食べるとは意外だな」
「新境地開拓しちゃったかもね、私」
そう言って妻は突然イナゴを一匹素手でつまんで私の口に放り込んだ。
「な、何」
突然の妻の行動に脳味噌はその動きを止めたが、口の中の触覚がイナゴの殻の固い食感を感じた。
「ん、ん、んう」
彼女の唇が私の口をふさいだ。
思わず上下の歯がイナゴの殻をかみ潰し、佃煮の甘辛い味が口の中に広がる。もしこれがファーストキスだったら最悪の経験として語り継がれる味だろう。
ファーストキスはイナゴの佃煮の味がしました。こんな歌詞が流行歌に出てくることはない。
「ど、どうしたの?」
「ふふふ。新境地」
記憶にない顔で妻が笑う。
「あなたって私の全てを知ったつもりでいて?」
物語に出てくる悪戯好きの妖精のような、そんな目をした妻が口角を引き上げた。
「ねえ。私たち、そろそろ子供がいてもいいわよね」
私は夢を見ているのだろうか?こういうことについては今まで妻の方から誘ったことはない。
妻は左手の親指と人差し指で新しいイナゴを一匹つまみ上げた。そしてそのまま愛おしそうな目でしばらく見つめる。まるでアイスクリームのコマーシャルに出てくる人気モデルのように。
彼女はバラの花びらで埋め尽くされたバスタブに浸かり、小さなパックから銀のスプーンでアイスクリームをひとさじ掬い、たっぷりと時間をかけて眺め回してから、その小さな口に運ぶのだ。
まるで世界に一つしかないダイヤを手にした古代の女王のように。あるいは不老長寿に効くと信じて生きたまま美女の心臓を取り出して食べた中国の女帝のように。
妻はイナゴを口に放り込むと、バリバリと噛み砕いた。ヒゲの生えた足が一瞬、唇の間から覗いたが、すぐに口内の深淵に消えていった。赤い舌が出てきて唇についた甘辛い味を素早く拭った。
彼女はイナゴに向けたのと同じ目を私に向けた。妻の目はこんなに黒かっただろうか?
一瞬、私はお腹の底が縮み上がるのを感じた。まるで蛇に睨まれたカエルのようだった。それは私に捕食者と被捕食者の関係を思い出させた。
「なんだか元気出てきちゃったみたい。野生の力を取り戻したっていうか」
妻はゆっくりと立ち上がり、私に近づいた。正面から私の上に跨がり、両手を首に回す。そのまま私の頭を抱えて胸に抱き寄せた。
ゆっくりと頭を撫で、頭頂部に口づけをする。妻の白い両手は頭から耳へと、耳からほお、ほおから顎の下へと移動し、指で軽く私の顎を引き上げて目と目が合うようにする。
「ふふ。あなたってこんなに可愛い目をしてたかしら」
こんなに積極的な妻は初めてだった。さっきやり取りしてからほんの数時間で人が変わってしまったようだった。
仕方ない。今日は夕食はパスするか。私は妻を抱き上げ、寝室に向かった。
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