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終章
それからしばらくたち、私は書斎に籠って取材旅行中に聞いた話を整理していた。
今回は何よりも蟷螂神社で聞いた話が強烈だった。文化人類学者であれば誰もが興味をそそるような要素がたくさんあった。
今回の日本の伝統的な昆虫食についての研究には使えないことでも、またいつか何かの研究をするときに使えそうだった。
ドアがノックされ、妻が入ってきた。あれ以来、私たちの間には何事もなかったかのように今まで通りの時間が流れた。
あの夜だけ妻は人が変わったようだった。翌朝から妻はいつもの妻だった。
あれは一体何だったのだろう?私はまだ気持ちの整理がつかなかったが、とりあえずいつもの妻に戻ってくれてよかったので、あのことについては私たちの会話に登ることはなかった。
そう言えば、あれ以来、食卓にイナゴの佃煮が乗ることもない。どうしたのか確認していないが、おそらく冷蔵庫の奥にしまわれたままなのだろう。
ところが、妻の手には蟷螂神社でもらったタッパーがあった。
「あれ?まだあったんだ、それ」
私は不思議に思って聞いた。
「うん。冷蔵庫の奥に入れたままだったわ。どうかしてるわね、こんなに美味しいものを放っておくなんて」
最も予期していなかった答が返ってきた。
「えっ?まだ食べるの?」
「当たり前じゃない。だってこんなに美味しいんですもの。アタシはイナゴがこんなに美味しいなんて思ってもみなかったわ。今度コオロギも佃煮にしてみようかしら」
私は妻の変化に驚きながら言った。
「冗談はよしてくれよ。昆虫食の分野も大分開拓されてきたとはいえ、まだイナゴとコオロギの間には大きな差があるよ。そんなにイナゴが気に入ったんだったら今度どこかで買ってきてあげるよ。深川かどっかの佃煮屋にも売っているはずだから」
「ねえ、あなたはどう思うかしら。もし私たちの子供がコオロギが食べたいって言ったら」
「ちゃんと食育するよ。イナゴはいいけどコオロギは駄目だ」
「私も最初は抵抗あったわ。イナゴでも気持ち悪かったんだから。でも人って変わるのよ。与作さんの奥さんになった人のように」
妻はまだあの話を覚えていた。
「ねえ、私は昆虫食に興味があるのよ。今度あなたが行ったお店に連れてってくれる?セミやコオロギも食べてみたいわ。昆虫って栄養があるのよ。私もっと栄養つけなきゃいけないのよ」
妻は両手を私の首に回した。そのまま顔を私の首筋に近づける。
「実はね、昨日産婦人科に行ってきたの。もしかしたらと思って。そしたらね、分かるでしょ?私たちそろそろ子供がいてもいいわよねって二人で話してたじゃない?だから私、栄養のあるものが欲しいの。分かるでしょ?でなけりゃ、あなたを食べてしまいそう」
妻の柔らかい舌先が私の首筋を這った。熱い吐息が耳元を襲った。
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