坊主

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坊主

与作の両親に呼ばれて坊主がやって来たのは昼過ぎだった。日は既に南中を越え、やや西に傾きかかっている。 「此奴か。お主らの倅は」 与作は採ってきた虫を鍋に入れているところだった。今日の狩りは既に終えたらしい。 おそらく朝のうちに採ってきたのだろう。与作の後ろに立ち、大柄な坊主が見下ろすが、与作は自分の後ろに人がいることに全くの関心を持っていないようである。 そのまま大量の虫を茹で続け、茹で上がった数匹のムカデを口に入れてムシャムシャと食べる。 「はい。ひと月ほど前に山で失ないまして、数日の後にひょっこりと帰ってきはしましたものの、こうして昼間は畑仕事にも出ず虫を採ってきては茹でております」 年老いた与作の父親が答える。 「夜はぐっすり眠っておりますが、虫以外のものは口にしません」 虫以外のものは口にしない・・・坊主は眉をひそめた。この地方ではイナゴやざざ虫を食べる風習がある。それらはドジョウやフナと同じように当たり前のように食べられる。しかし、今与作が口の中に入れたものはムカデではないのか・・・。 「そしてあれか」 次に坊主は庭に大きく開いた穴を見やった。与作が茹で上げた虫を入れている穴だ。 中に虫の死骸がぎっしりと詰まっているのが分かる。与作の両親が坊主を呼びにやっていたここ二、三日のうちに更に増えたらしい。 聞いていた量より多そうである。異臭が臭ってきたりはしていない。例年ならこの時期はもっと暑く、あんなものが庭先にあったら腐ってしまって臭くてたまらなくなるなと坊主は思ったが、この年はいつまでも気温が上がらなかった。 狐でも憑いたか。与作の両親からことの次第を聞いた坊主がまず思ったのはそういうことだった。 山で狐に化かされて同じところをグルグルと何度も歩かされるという話はよくある。 大抵はそのまま戻って来ず、何日か後で遺体で発見されるわけだが、意外とそれは里の近くで見つかる。それも本人がよく知っているはずの、迷う方がおかしいような場所で。 坊主は片手で与作の頭を押さえ、もう片方の手の二本の指を使って与作の左目の上下の瞼を見開かせ、慎重に瞳を覗き込んだ。与作は抵抗らしい抵抗もせず、坊主にされるがままになっている。 違う。狐じゃない。坊主は思った。確かに何かが憑いているような気配はある。 しかし、狐や狸であればもっと動的なものを感じるはずだ。蛇かとも思ったが、蛇であれば思念の強さがある。 それに、これらであれば今に至るまでに何らかの実害が出ているはずだ。与作の行動は奇妙であるが、人に害をもたらすようなものではない。ただ薄気味が悪いというだけである。 与作に憑いているのは獣や爬虫類ではなく、もっと中立的な何かであると坊主は踏んだ。 与作は庭に下りて、自分が食べなかった残りの虫を穴の中にドサッと放り込んだ。 そのとき与作はいつもと違う行動を取った。与作は納屋に行くと餅つきに使う杵を持ってきた。 穴の側に立ち、腰を据えて杵を持ち上げると、そのまま中の大量の虫の死骸に向けて思い切り振り下ろす。 グシャっというくぐもった音が聞こえて、坊主は思わず顔をしかめる。職業柄気味の悪いものは色々と見てきたが、これは坊主がそれまでに体験してきた気味の悪さとは違った気味の悪さだった。 与作の両親は「ひゃっ」という悲鳴を上げて、揃って坊主の後ろで腰を抜かした。 与作は一心不乱に杵を振り下ろし続ける。与作の渾身の杵の一撃を受けたバッタの足が千切れ飛び、与作のほおに着く。与作は赤い舌を出してそれをペロリと舐め、同じペースで作業を続けた。 与作が一撃を振るう度に、辺り一面に千切れた虫の破片が飛び散った。ゴキブリか何かの羽のカケラがヒラヒラと宙を舞い、ムカデの頭の付いた上半分が坊主の草鞋の側まで飛んで来た。 見るもおぞましく凄惨な光景だったが、坊主は意識を集中して与作の背後にあるものを見ようとしていた。目の焦点をずらし、与作の体を客体としてでなく背景の一部として見た。 持てる霊感の全てを使い、与作が存在している辺りの空間にフォーカスしていく。 坊主が見ることだけのためにこれだけの力を用いるのは異例のことであった。田舎の寺の住職とはいえ、若い頃に比叡山で仏門に入っているし、修験道の修行も積んでいる。並みの(あやかし)であれば、さして苦労もせずに見破ることが出来る。魔を祓う力も相当なものを持っている。 それでも坊主に分かったのは、分からないということだけであった。信じられない。それは坊主にとって初めてのことであった。 ただ、ワシに見えぬのだから悪いものではあるまい。坊主はそう思った。大方、山に住む精霊か自然霊の類であろう。 しかし、そういったものが人に憑くなどという話は聞いたことがないし、それらの性質を考えても人に憑けるような存在ではなかった。ましてやそれが里に下りてくるなど・・・。 坊主は物思いに耽っていたが、ふと与作が杵を振り下ろすのを止めたのに気付いた。与作は再び納屋の中に入っていき、今度は桶を一つ持ってきた。 穴の淵で屈み込むと、中のものを手で掬って桶に移し替え始めた。つい先程まで甲虫やら羽虫やらの身体の一部分であった粉々のものたちが、穴から与作の手の平へ、与作の手の平から桶へと移動させられる。 与作は表情一つ変えずにその作業を続けた。自分の手が汚れることなど一切関係がないようだ。もう随分と労働をしているが、くたびれた素ぶりを全く見せない。 中のものを全て詰め終わると、与作は桶を持って庭を出た。坊主が追い掛けると、与作は田んぼの前で止まった。どうやら与作の家の田らしい。 与作は水を抜かれた水田の中に分け入って、桶の中のものが満遍なく全体に行き渡るように撒き始めた。稲は随分と大きくなっており、小さな穂をつけ始めているものもある。 坊主は目の前で起きていることをどう解釈してよいのか困っていた。与作は田に肥料を撒いているように見える。側から見れば、与作が今していることは稲に肥料を与えているようにしか見えなかった。 しかし、その肥料というのが牛糞や人糞ではなく、与作が毎日毎日採集し、そしてその一部は与作の血となり肉となった大量の虫どもである。 坊主は自分では田を耕さないが、百姓がどのようにして米を作るかについての知識はあった。これは坊主が知っているどのやり方とも違っていた。 虫が肥料になるとは。 と坊主は思ったが、まだ与作が肥料を撒いていると確定出来た訳ではない。山で気が触れて虫を喰うようになった狂人が、意味のないことをしているだけなのかもしれなかった。 与作は田んぼに虫たちの粉々になったものを撒き終えると、何事もなかったかのように畦道を通って家へと帰っていった。 坊主が立っている側を通り過ぎたが、坊主には一瞥もくれなかった。まるで通り道にある障害物を避ける昆虫のようであった。
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