禰宜

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禰宜

「奇妙な話ですけど、理屈としては正しいような気もします。今になって昆虫食が注目されているのも昆虫を食物として見た場合、栄養価が高いためですから」 禰宜が一息ついたところで、私は間に割って入った。そもそもこの手の伝承は、どれも辻褄の合わないものである。近代理性が支配する領域ではないのだ。 「それでも虫を肥料に使うなんてことはこの辺りでも実際には誰もしませんね。田舎の人たちなので虫には抵抗はないでしょうけど、それでも気持ち悪さが先に立ちます」 禰宜は再び話し始めた。その後の与作と村の話を。 「結局、坊主の力を持ってしても、与作に憑いているものが何かは分かりませんでした。ただ、悪いものではないだろうということで、一旦坊主は寺に帰ることにしました。何かあったらまた呼んでくれということで。その年は江戸時代に何度かあった大規模な飢饉の年だったようです。夏になっても気温が上がらず、この村の稲も大分被害を受けました。冷夏災害というやつですね。ところが、いつもと変わらずと言いますか、いつも以上に大きな収穫があった田がありました。それが与作の家の田んぼでした。今であれば、与作の撒いた虫たちが肥料になって強い稲になったという説明が付くんでしょうけど、当時は何が何やら分からず、とにかく気味が悪いということだったようです。村人たちは、やはり与作には狐が憑いているんだ、だからこんな不思議なことが起きるんだと、最初は避けておったようですが、しかし昔の飢饉というのは相当酷かったようで、遂に餓死者が出るかという時になってニッチもサッチも行かなくなって与作の家に助けを求めたようです。まあ、与作は山から帰ってきた後は人が変わったようになっていて誰かが話し掛けても上の空であった訳ですが、年老いた与作の両親は村人いい人たちで、村人に米を分けてあげたそうな。与作自身は相変わらず虫しか口にしませんし。兎にも角にもそうしてこの村は飢饉を乗り切ったそうです」 「へえ、めでたしめでたしじゃないですか。現在昆虫食が注目されているのも食料不足のおそれからですからね。現代が抱えている問題と微妙にリンクしているように思います」 私は少し研究者っぽい合いの手を入れた。それとなく禰宜の顔色を伺うが、関心している素ぶりは全くない。まあ良いだろう。私はお茶を啜り、話を邪魔する気がないことを示した。 「続けてください」 「まあ何はともあれ、そのようにして村が救われた訳です。気味悪がっていた村の人たちもこの一件では与作にひどく感謝しまして。何せ村の救世主ですから。近所の子供たちがバッタやらゲンゴロウやらを捕まえてきて与作にあげるなんてことをしとったようですけど、大人たちも与作に命を救われた手前、何かをせねばということになり、渋々ながらも与作の両親に尋ねたそうです。そうしたら両親は与作に嫁が欲しいと言うんですな。与作がこんな風になってしまってからは嫁を貰うことは諦めておったようなんですが、降って湧いた僥倖にこれはチャンスとばかり、また嫁でも貰えば元の与作に戻るのではないかという一縷の望みも持って、村の庄屋に頼んだそうです。これを聞いて困ったのが村の庄屋です。何せ村にいる年頃の娘となると一人しかおらぬ。そしてその一人というのが他でもない庄屋の娘でしたから。これは如何したものかと頭を抱えておりましたが、この娘が良く出来た娘で、村が救われたのは与作のおかげである。何かお礼はせねばなるまいし、自分が嫁に行くことでそれになるのなら構わないと申したのです。頭は呆けておるようだが村を救ってくれたのだ、悪い人ではあるまいと。そうして庄屋の娘が与作の嫁になりました」 虫しか食べない男の嫁。想像しただけで気持ち悪い。伝承はただの作り話とはいえ、娘はどんな気持ちだったろうか。 食卓についた禰宜の太った大きな嫁が、イナゴの佃煮を自分の皿に取り分ける。ここの家族はみんな虫を食べる。 「そうこうするうちに娘が懐妊しました。この頃になると与作の虫食いも少し収まっていたようです。クモやらムカデやらヤスデやら、そういう気味の悪い虫は娘が食べさせんようにしとったし、米やら栗やらも少しずつではあるが食べるようになっとったみたいです。村の庄屋も最初のうちは心配して気を揉んどったようですが、どうやら与作も元に戻り始めているようだし、娘の懐妊を聞いてほっとするところもあったのでしょう。それに何より孫の顔を見たいという気持ちがありました。その頃、また件の坊主が村を訪れたようです。娘の腹はもう随分大きくなってきており、そろそろお産の準備をせねばというときでした」
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