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坊主
与作の奇妙な一件は坊主の頭を離れることはなかった。あの後坊主は比叡山に戻り、考えられうる限りの古文書や巻物に目を通した。
比叡山の書庫には古今東西の憑き物に関する膨大な資料がある。坊主は支那や天竺の事例にまで目を通した。
しかしどの資料にも与作のようなケースはなかった。比叡山の高僧達に聞いてもみたが、誰一人納得のいく回答を持っていたものはいなかった。
釈然としない気持ちを抱えたまま、坊主は寺に戻ることにした。そういつまでも自分の寺を開けておく訳にはいかない。
その途中、どうせ通り道なのだからと自分に言い聞かせ、坊主は与作の様子を見に行くことにした。
坊主が与作の家の近くまで来た頃には、既に太陽は西に沈みかけていた。夕焼けが辺りの山々の木々を赤く染めている。
「御免」
坊主は戸の前で声を掛けた。年老いた与作の父親が出てきた。
「これはこれは、あのときのお坊さまではありませぬか。おかげさまで、与作は元気でやっております。あの後、嫁を貰いまして、少しばかりでありますが、以前のように戻りつつあります。こちらから声を掛けると反応するようになりましたし、虫以外のものも口にするようになりました」
「左様であるか。それは良かったが、何やら慌ただしい様子であるな」
「はい。実はこの嫁というのが懐妊しておりまして、お産の準備に入っております。普通は実家に帰ってするものですが、娘がどうしてもこの家でお産をすると聞きませんで、婆さんも産婆の心得があるものですから、それならばと仕度をしておったところであります。もう二、三日のうちには産まれるものかと存じます」
嬉しさを隠し切れないといった様子で与作の父親が答えた。
坊主にとっては与作が嫁を貰って、さらに赤子まで産まれるというのは驚きであったが、虫喰いが収まってきたということなら、与作に憑いていたものも離れてきているのだろう。
本来、山にいる物の怪どもは里には居れぬものなのだ。与作が人並みの生活を送るようになったことで憑いているものも一緒にいられなくなったのだろう。
「そうか。楽しみであるな。ところで、出来れば納屋でも貸してくれると有り難いのだが。今日中に寺まで行けそうにないのでな」
与作の父親は快く承知し、坊主はその晩を与作の家の納屋の中で過ごすことになった。
その夜のことである。何やら外で物音がしたため、坊主は目を覚ました。
バキッ、ドサッ、バキバキッ。
グシャッ。ズズズ。バキッ。
バリッバリッバリッバリッ。
何かが倒れる音、固いものが折れる音、引きずる、あるいは引きずられる音。爽やかな目覚めには相応しいとは言えない音を耳にして、坊主は枕元に置いておいた数珠を手に取り外に出た。音は与作の家の中から聞こえてくる。
坊主は思い切り戸を開け放った。月明かりが差し込み、中の様子を照らし出す。坊主がそこに見たものは、決して見てはならぬものだった。
まず、床に落ちた手が見えた。皺の寄った老人の手。手首から先が食い千切られたようになくなっていた。その傍らには、人間の首。夕方に見た与作の父親の顔をしていた。
坊主は顔を見上げて奥を見やる。身の丈六尺ばかりあろうかという大きな女が、左手にぐったりとした老女を抱え、右手で若い男の首を掴んで、口から血を垂れ流して立っているのが見えた。
女の髪は長く、床まで落ち、血で染まっていた。まるで床の血だまりから髪を通して血を吸っているようにも見える。女の腹は大きく膨れ上がっていた。
女は大きく口を開け、若い男の首筋に噛み付いた。男は与作だった。女の歯が首筋の皮膚を突き破り、血が吹き出す。女は美味そうに血を吸った。そしてそのままバリバリと、与作の首筋の骨や筋肉を咀嚼し味わう。
坊主はようやく、自分が目にしているものの正体に思い当たった。
「蟷螂か」
与作に憑いていたものの正体は蟷螂だったのだ。
蟷螂は交尾の後で大きな雌が小さな雄を喰ってしまうという。おそらく与作に憑いていた蟷螂が与作の嫁に乗り移ったのだろう。
そして出産前の栄養補給をしているのだ。必然的に、極めて自然に。
比叡山で修行した自分の神通力を持ってしても正体に気付けなかったのも道理だ。憑いているのが狐や狸や蛇であれば、そこには明確な悪意がある。
それらは善悪が理解出来るのだ。人に憑いた場合、明確な邪悪な意思がある。ところが蟷螂には意思と呼べるほどの意思がない。
昆虫というのはただ本能に従って生きているだけなのだ。与作に憑いた蟷螂は本能に従って虫を喰い、昆虫一般が持っている予知能力によって冷害を予測し、その対策を取り、本能に従って種を増やそうとした。
そして今、本能に従って人を喰っている。そこには邪悪な意思のひとかけらもないのだ。
与作の頭の下半分は既に喰われてしまっていた。髪を掴み、逆さまにして口の中に突っ込む。
ズルズルと、脳味噌を吸う音が聞こえた。全て味わってしまうと、半分の頭蓋骨を無造作に下に落とし、左手に抱えていた老女の腕を引き千切って、千切った断面の方から丸ごと口に入れた。
与作の頭蓋骨はコロコロと転がり、坊主の草鞋の側で止まった。と、女が坊主がいることに気付いた。
女の瞳孔が大きくなり、坊主を見据える。その目は食事中に邪魔が入ったことによるイラ立ちなのか、それとも新たな獲物を見つけたことによる喜びなのか判別がつかない。
何れにせよ、女がはっきりと坊主がそこに存在していることを認めたことは確かである。坊主の背中に冷たいものが流れる。
坊主は物の怪と対峙することに慣れている。これまでに幾度となく修羅場を潜ってきた。しかしそのとき背中を流れたものは、いつもより冷たい気がした。
坊主は体の前に数珠を掲げ、両手で特殊な印を結ぶ。比叡山に戻っていたときに、数珠には数々のお経を染み込ませてある。
今回は相手が分からぬものだから、より念入りにお経を染み込ませた。持っているだけで、多少のものなら近くに寄れないほどに法力が強くなっている。
しかし今回の相手は邪悪なものというより自然のものだ。山の中で熊と出会ったような状況に近いかもしれない。
坊主の法力がどこまで通じるかはやってみなければ分からない。 坊主は印を固く結び、明王の真言を唱え始める。大抵のものならこれで退散する。
女は手に持っていた与作の母親であったものを床に落とし、ノッシノッシと坊主に近寄った。一瞬、その表情が曇り、動きが鈍くなる。
やはり真言が効いている。と坊主は思った。しかしその瞬間、女の腕が一閃し、坊主の体が吹き飛ばされる。
「グガッ」
坊主は壁に酷く体を打ち付け、一瞬息が出来なくなった。人間の力ではない。蟷螂は昆虫の中では力が強い。その体を人間大の大きさにすれば、なるほど破壊力は如何ばかりか。
やはり自然のものだ。真言が効かぬ。坊主は視界の端に、囲炉裏から散乱したであろう火箸を捉え、右手で引き寄せる。
女はゆっくりと坊主に近寄り、左手で坊主の首を鷲掴みにした。そのまま片手で坊主の体を持ち上げる。大柄な坊主の足が床につかないほどに持ち上げられる。
女はそのまま左手に力を入れて坊主の首を絞めていく。薄れ行く意識の中、坊主は右手の火箸を女の喉に突き立てた。
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