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私は東京に戻った。私が持ってきたお土産を見て、案の定妻は悲鳴を上げた。 「ちょ、ちょっと、あなた。どうしてこんなものを持ってくるのよ。私がこういうの嫌いだってこと知ってるでしょ?」 「しょうがないよ。地元の貴重な話を聞かせてもらったんだから。断るわけにもいかないだろう。それにゲテモノを持ってきたわけではないし。日本の伝統的な食文化だよ。世の中にはセミやサソリを食べる人だっているんだ」 「セミやサソリ??あなた頭がどうかしちゃったの??」 しまった、言わなければ良かったと思ったが、私は生物学の研究者と行ったゲテモノ料理屋の話をした。もちろんマイルドに。八割以上話を引いて。 特に私がサソリを注文してはみたものの食べられなかったということを強調して話しておいた。 代わりにカエルを食べたことは内緒である。そんなことを話したら妻はもう私とキスしてくれなくなるだろう。 「とにかく、そんなところにはもう二度と行かないでちょうだい。いいわね」 「う、うん」 実を言うと私は妻の実家に住まわせてもらっているため、基本的に立場が弱い。大学の研究者の給料だって僅かなものであるため、妻の言うことに逆らうことはほとんどない。 「分かったよ。もう二度とあんな店には行かないし、イナゴも捨ててしまうよ。とっとと論文を仕上げて、もうこの研究はしない。佃煮も食べない」 「研究??あなたこんなものを研究してたの?」 やれやれ。自分の研究についてはよく妻に話していたはずなのだが、そもそも文化人類学という学問がこれといった領域を持たずに何でも研究対象にしてしまうため、妻は私の研究を良く理解していなかったのかもしれない。私は腹を決めて今回の調査旅行でしたことを話し始めた。 そもそも文化人類学とはどんな学問かということから始めて、田舎まで行って話を聞いたこと、そこでカイコやざざ虫をご馳走になったことを正直に話した。 案の定、妻はもう二度と私とキスをしないという宣言を何度もしたが、話が蟷螂神社のことになると次第に興味を持ち始めたようだった。 「ふうん。でもおかしな話ね。どこかで話がねじ曲がっちゃったのかしら」 「まあ、こんなのは後の時代に作られた作り話だよ。もちろんカマキリが人に憑くなんてのは迷信だし、狐だって狸だって人には憑かない。文化人類学をやっているとこういう支離滅裂な話にはよくお目にかかるんだ。辻褄の合わないおかしな話だよ」 「違うわよ。私がおかしな話だっていうのは、だって肝心なところが抜け落ちているじゃないの。この話で一番重要な登場人物は与作さんの奥さんになった人でしょう?村のために与作さんと結婚して本当は嫌だったと思うの。でも彼女は自分の運命を村のために捧げたのよ。気味が悪かったと思うわ。そんな虫しか食べない人と結婚して。でも与作さんも結婚してからは大分まともになっていったんでしょ?クモとかヤスデとか食べさせないようにして。お米も食べるようになって返事も返すようになって。それはやっぱり奥さんの努力なのよ。きっと相当な苦労をして与作さんを立ち直らせていったんだわ。最後には自分が憑かれちゃったのは残念だけど、いずれにせよこの話の肝はこの奥さんにあるのよ。結局、蟷螂神社に祀られているのも最終的にカマキリに憑かれていた奥さんなのよね。だからその神社は奥さんが御神体なのよ。それなのにその話は奥さんの活躍がすっぽり抜け落ちているじゃない」 急に妻の鼻息が荒くなったものだから、私はその剣幕に驚いてしまった。 「え、そこは、まあ、そう言われてみればそうだけど。でもこの話で重要なのはそこじゃないと思うな。カマキリが人に憑いたという伝説があって、そしてカマキリを神社に祀っているということだよ。要は何らかの由来が必要だったということなんだ。後世の人たちが説明を必要としたんだよ。人間は全てのものに対して何らかの理性的な説明を求めるものなんだ」 私は悪い説明ではないと思ったが、妻の反応は冷たかった。 「あなたってそんな人だったかしら。結婚当初のあなたが今のあなたを理性的に説明するのはきっと無理よ。あなたこそカマキリに憑いてもらったほうがいいかもね」 見えない銀の銃弾を私の胸に撃ち込んで、妻は踵を返して去っていった。 彼女は二度と私にキスをしてくれないだろう。そして私は悪い魔法使いにカエルにされてしまって、お姫様がキスをしてくれないばかりに一生カエルの姿で過ごすのだ。ケロケロ。 それとも私は結婚当初と違って既にカエルになってしまっていたのだろうか?どちらかというと私の周りの人が変わったように思うのだが。 気を取り直して、私は仕事に取り掛かった。
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