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「あんたさっきからカバンがあたってんだよ」 いらだった声が聞こえた。夢から現実に引きずり落とされた。入口近くで勤め人らしき男たちが二人、にらみ合って入る。 片方は丸い眼鏡をかけたおとなしそうな男性である。もう片方はさきほどから引き続き、その猿のように甲高く、耳障りな声を張り上げていた。こちらはいかつい四角い眼鏡をかけて自分の強さを演出していた。 どうやら丸い方が肩にかけていたトートバッグが四角い方の背中に当たっていたらしい。四角い方がキャンキャンわめている。朝の通勤ラッシュにはたまにこういう我慢の足らない人が現れる。丸い方は一見おとなしそうに見える。だが、彼もまた気が立っていたのだろう。舐められたくなかったというのもあるのだろう。言い返してしまい、引っ込みがつかなくなったようだ。 夢うつつに冷や水をかけられた私の心臓は異様な速度で脈打っている。真空ポンプのベルトを思い出す。がっがっがとベルトが回転翼を回し、ローターが熱を帯びた空気をぐるぐると排出する。この間配管が破れたから交換してくれと言われた。私の担当ではない。私の血管もきれそうだ。争いごとは苦手だ。恐い。私は比較的穏やかな人生を歩んできたのだ。喧嘩もしたことがないのだ。危ない事には近づかないのが信条だ。ふとした拍子にこんなことが起こると心臓が悲鳴をあげるのだ。 「なんなんだよ。当たってないだろう」 丸い方は不憫だ。なんて思わない。そもそも彼が電車内でのパーソナルスペースに関して誤った理解をしていたのが発端だ。彼にとっては自分を中心に半径数十センチの円が自分の領域だったのだろう。だが、実際のところ身体は円周に含まれている。自分の目線の下。胸の辺りが中心だ。最近では車内アナウンスでもリュックは背負わずに足元に置くか、前に持つかするように案内をしているではないか。他の乗客に不評を買うのは当然だ。 「迷惑なんだよ。おまえのかばんがよ」 四角い方は声こそ張っているが、別に暴力に打って出たりはしない。それなりに歳を重ねている。朝のイライラに任せて自らの職場での立場を危うくするべきではない、という理性は働いている。丸い方はそれを知ってか知らずか。それとも危なくなったら誰かが止めに入ってくれるとでも思っているのだろう。互いに沸々とわきたつ腹の熱湯を撒きあっている。
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