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明治も初めの話である。
とかく女遊びがすぎるという男が、この国の政治の頂点に立っているのだからけしからん話である。しかも、若い女の連続失踪に関係している疑いがあるのだから、穏やかでない。
幸三はすっかり擦り切れて薄くなった外套の胸元を引きあわせた。伯父から譲り受けたツイードはもういまや織目もわからぬほど汚れに馴染んでいた。幸三はいつもの癖で、胸元の手帳と鉛筆を探った。指先に使い古してよれよれに柔らかくなったそれが当たれば、まるで赤子がおしゃぶりを手にしたように安心するのである。新聞記者の性である。
陽もおちて、しんしんと冷えてきた。やがて伊藤博文公の邸宅の大門からはあたたかな明かりが漏れてきた。幸三もまだ若いから腹がすく。寒さは気力で何とかしのげても、空腹はどうにもつらかった。しかし邸宅からは幸三の目指す女は出てこない。
「おお、きょうは冷(ひや)い。あのひとはまだ向こうにおっちゃる……?」
大門の陰で歩き回りながらどうにか寒さをしのいでいると、女の声がした。陰からそっと覗くと、年のころからして女主人と女中らしい。
「あの芸妓でございますか? ええ、一人はもう帰りましたが、あの『さく』とかいう女はまだ……」
女主人は星の冷たく輝く寒空を仰いでうなずくと、二人は大門の明かりをともし終えて屋敷の中へと入っていった。
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