4.蠍の火

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「ちょっと。ちょっとそこの人」  追いかける割に名前も知らないのだ。そう思って走りながら笑ってしまった。なんて間抜けなんだろう。  でも仕方ないのだ。最初に自己紹介はあったけれど、彼の声は小さすぎて聞き取れなかった。他の人もいる手前、彼の名前だけをもう一度繰り返し言ってもらうのは気が引けた。聞きたかったけれど、我慢したのだ。  彼は私の声に気づき、振り返った。  身長が高い。目を引く外見をしているのに、目は死んでいるかのように光がない。陸に打ち揚げられた烏賊みたいな目だ。  何だ、このギャップ。萌えはしない。断じてしない。だけど、気になるのは事実だった。  この、何も映らない瞳に、何かが映ることがあるんだろうか。 「退屈だったんでしょ。私もそう。今から一緒に別のお店行かない?」  まるで逆ナンだ。というか形式上まるっきりそうだ。そして、実際感情的にもそうだった。嫌いだったら追いかけて誘うことなんてしない。  彼は表情のないまま、私をじっと見つめていた。おそらく言葉の意図を探っているんだろう。そうに違いない。これで明日の晩御飯のことなんか考えていたら人格を疑う。それぐらい、深く沈んだ、何も映らない瞳だった。 「何よ。どっちなの。行くのか、行かないのか」  はっきりしなよ木偶の坊。  さすがにそこまでは言わなかった。彼は首を傾げて思案して、また私を見た。目が大きい。髪もサラサラしている。柔らかそうだ。肌も白くて艶がある。女の私より質がいいとはどういう了見なのかと文句を言いたくなった。    もちろん言わない。 「場所による」  彼の声は低かった。声が小さいのではなく、低いから聞き取りづらいのだとわかった。  大体聞き取ってもらおうとも思っていないのだろう。相手が聞き取りづらいと思っていることもわかっていない。  彼は今、自分の世界の中にいる。
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