4.蠍の火

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「ここから三十分ぐらい歩いたとこに、私がバイトしてたレストランがあるの。オムライスと、あとコーヒーがおいしいよ」  私のオススメは断然オムライスだったけれど、彼はコーヒーの方に反応したようだった。コーヒーと聞いた時の彼は、少し目が光った気がする。  だけど気のせいだったかもしれない。今はもう、暗い霧のかかった森の中のような目になっていた。残念だ。 「その店は、静かかな」  さっきの騒々しい居酒屋の雰囲気がよっぽどお気に召さなかったんだろう。その気持ちはよくわかった。あの店に居続けたら、私だって気が狂う。 「大丈夫。適度に静かで、かなり素敵なお店だから」  じゃあと、彼は私についてきた。二人で並んで歩く。百六十センチにも満たない私は、彼の顔を見るのに大分見上げなければならなかった。  下から見る彼の額は、少し長めの黒い髪で全て埋まっている、どころか目の半分を隠している。視力が落ちないのかととても気になった。  私だったら鬱陶しくなって、切ってしまうかピンで留めてしまうかするだろう。私は上着のポケットに入っているピン留めを触りながら、いきなりこのピンを前髪に留めてやろうかと考え、その時のことを想像し、少し笑った。 「ねえ、名前、何だっけ。私は文学部の曽野田真緒。よろしくね」  尾崎。  彼は低い声でそれだけ言った。  あまり愛想のない人だ。だけど拒絶しているわけではないんだろう。私の小さな歩幅にちゃんとぴったり合わせてくれている。  だけど私はフルネームを伝えたのに、自分は苗字だけなんて、コミュニケーションの基本がなってないんじゃないだろうか。
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