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「椎名君も、起きたらすぐに帰ってもらうから……。だからお願い」
壮太は沈黙している。息遣いすら聞こえてこない無音では、彼の表情は計り知れなかった。
「……ごめんね」
沈黙に耐えきれずに声をかけると、壮太からは「わかった」と短い返事がきた。
「……相原のところに戻るつもり、ないよね?」
低い声の向こうで、きっと今。
壮太は細い目を鋭く尖らせているだろう。
その表情が声とともに想起されて、沙和はお腹に力をこめて「……それはないよ」とうなずいた。
声だけで、それが本心だと伝わるように、壮太が安心するように。
「……なら、いいけど」
不承不承といった感じだったけれど、壮太は「じゃあまた来週」と言って引き下がってくれた。
通話を切って、ベランダにもたれかかる。
空は高く澄んで、一片の濁りもない。この眩しさの下にずっといられたら、心の奥にある形のないものの輪郭くらいは見えるのだろうか。
(……とりあえずシャワー浴びよ)
頭をふって部屋に戻る。椎名はまだ眠っていたから、沙和はそっと彼を避けてバスルームへと向かった。
◆
キッチンにあるコーヒーメーカーは、少し埃をかぶっていた。それをさっと落として、久しぶりに電源を入れる。
このコーヒーメーカーと合鍵を、相原に返さなくてはいけない。
(きっといらないって言うだろうな……こっちは)
耳慣れた低い機械音を聞き流しながら、沙和はマグカップを出そうと棚を開けた。『S』のマグカップがまず目について、そういえば椎名も『S』だななんてぼんやり思う。
(だからどうなんだって話だけどね……)
迷ったのは一瞬で、沙和は当たり障りのない無地のものを選んだ。
次第に香ばしく深い香りを漂わせながら、少しずつポットにコーヒーがたまっていく。それを眺めながら、沙和は相原の部屋と彼本人を思い浮かべた。
相原はきっと物に執着しない。
このコーヒーメーカーを返そうとしても、必要ないと言われるだろう。
冷たい目の奥でいつも揺らめいていた情念の炎を思い出し、沙和は一度身震いした。
相原が執着していたのは、沙和だった。
それが恋なのか愛なのか、それとも違うものなのか。
それを確かめることもなく、また、確かめたいと思うこともなく、逃げてきた。
(でも、それじゃ多分……ダメだ)
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