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29、意識せずには
たかがキス。
椎名は後輩。
そう自分に言い聞かせて迎えた月曜日。
フロアに着いた沙和は、満面の笑みで彼女を迎える椎名を見た瞬間にパリンと心の防御壁が割れた音を聞いた。
『ただの後輩』という認識は即座に『自分に気がある後輩(しかもちょっと気になる)』に書き換えられて、仕事をしていても隣に意識が向いてしまう。
あの夜の椎名の真剣な眼差しを。
触れた唇の柔らかさと熱さを。
そして、自分を抱きしめる腕の力強さと硬質な体の感触を。
(やばい……思い出しちゃう……)
仕事中の椎名は相変わらず中性的な分、あの夜のギャップが思い出されて恥ずかしい。
当たり前の仕事上の会話も上ずってしまい、沙和にしては珍しく午前中のうちに休憩コーナーへと駆け込んだ。
おかしい。
何かがおかしい。
自分の椎名に対する感覚が、おかしい。
(たった一回泊まったくらいで、キスくらいで……セックスもしてないのに!)
落ち着け。平常心よ戻ってこい。
呪文のようにひたすら繰り返し唱えて、買ったばかりのアイスコーヒーを流し込む。
その苦さで自分が浄化されたらいいのにと心底思いながら、沙和はテーブルに突っ伏した。
「あれ、どうしたの」
その時背後から沙和に近づく気配があった。
(タイミング悪い……)
のろのろと顔をあげると、同期入社の神田という男がいた。
彼は沙和と同じデザイナーとして入社し、最初の頃はよく一緒に仕事をしていたのだが、現在は同じ制作系でも違う部署にいる。フロアが違うので顔を合わせることはほとんどなく、彼の顔を見るのは久しぶりだ。
神田はその顔の淡白さと相反するように派手な格好を好む男で、今日も例にもれず鮮やかな幾何学模様のシャツを着ている。下に合わせているのが無難な細身パンツなので様にはなっているが、沙和の好みではない。
そして、見た目より何より、沙和と神田は相性が悪かった。
(わざわざ声かけなくてもいいのに)
そんなことを思いながら「神田君こそどうしたの。こっちにいるの珍しいね」と義理で話しかける。
「さっきまであっちで打ち合わせしてた。で、一服してから戻ろうかなって」
神田は胸ポケットからタバコをちらつかせたものの、すぐに喫煙室に移動する気はないようで、コーヒーを買うと沙和の向かいに腰掛けた。
「最近どうよ」
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