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私は鏡台の上にあるドーランの白を再び手に取ると、息子の眉間に指を伸ばす。鏡に映るのは若さの象徴であるハリと艶のある肌色の顔。対して見慣れている筈の皺だらけの指。それはまるで命の刻限を知らしめているようで微かに手が震えだす。しかし一年に一度の時期にしかやってこない息子夫妻。今年が孫に触れる最後かもしれないと自分に言い聞かせ、手早く眉間と鼻筋に白い縦線をさっと引き終え手を離した。
「ほれ、男前だ。頑張ったね」
「終ったよ。目開けていいよ」
私と嫁の声がほぼ同時に重なる。その声に素早く反応し目を開けた孫は本当?といいつつ恐る恐る目を開ける。しかし何故か喜びの表情ではなく怯えたような顔をしているではないか。嫁がどうしたと問いかけると、俯き加減にポツンと言葉を漏らす。
「神様、怒んないかな・・・」
思わずその言葉に私たちは笑いがこみ上げる。嫁は大笑いする中、私は賢明に笑いを堪え孫の後ろにしゃがみ込むと両肩に手をそっと置く。
「そうかそうか。反省していい子だね。大丈夫。ババが神様にちゃんと謝っておくから。しっかり神輿を担いでおいで」
するとその一言に安心したのだろうか。孫は突然、部屋の窓を振り向くと叫んだ。「ありがとう。ババ。そして神様ごめんなさい」
鏡に映る孫の顔。それはまるで仏様を思わせるような優しさと、晴れやかな笑顔。そしてかつての息子の面影が重なる。しかし次の瞬間、鏡にはいつもの私の顔だけが映っていた。そんな中、私は心の中で鏡に向かって語りかける。
『父さん、母さん。今日これから息子と孫が神輿を担ぎます。どうか見てやってください』
しかし鏡台からは勿論返事は無い。そして私は窓を開け、空を見上げる。
「ババ、早く行こう」
孫の声に我にかえり、私は鏡台のある部屋を後にした。
【了】
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