序章

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 その日は六月で、霧雨の降る夜だった。闇が支配する首都ファレストは全てが寝静まっており、路地裏の支配者である野良犬もひっそりと息を潜めていた。  誰も通りたがらないごみ溜めの細道で、黒髪の少年は体を小さく丸めていた。湿った空気が体温を奪っていく。とても、寒い。  昼間でさえ、汚れた格好で歩く彼を気にする人間はいなかった。誰もが自分のことでいっぱいで、自分の世界を見ていた。だから少年に手を差しのべることもなければ、その存在に気づくこともない。それを寂しいだとか、悲しいとか感じることはなかった……ように思う。もう心はくたびれていて、萎れた花のようになっていたから。  少年に帰る家はない。五月の始め、狂った父が母を殺し、「お前もいらない」と言われたのが怖くて逃げてきた。捕まったら殺されると、直感が告げていた。幸いにも、返り血だらけだった父は家の外まで追いかけてこなかった。  でもそんなのは少年の心を慰めるには至らない。少年は大通りから馬車を拾い、小銭だけの全財産を見せて必死に「遠くへつれていって」と頼んだ。一度目も二度目も断られ、御者に蹴り飛ばされたが、よぼよぼの馬が引く御者は少し悩んでから了承してくれた。三度目の優しい御者は、良くて三軒隣の八百屋にまでしか乗せられない料金で、二つ隣の町まで運んでくれたのだ。  それから昼間は明るい大通りを歩き回り、夜は誰も来ない路地裏に身を隠した。でも父に似た低く掠れた声をどこかで聞くたび、血の池に沈む母の姿と、短剣を手にした狂った男が脳裏に蘇って、恐怖で体が凍りついた。……それでも正気に戻ったら兎みたいにその場から逃げた。生きるために。  警察を頼ることや、友人の親に助けを求めることも少しは考えた。でも警察はてんで相手にならなかった。 『父が母を殺しました。自分も殺されるような気がして怖かったので、二つ隣の町から逃げてきました。助けてください』  そんな風にお願いしてみたが、警察官は訛りの強い言語で『悪いなボウヤ。二つ隣の町なら管轄外で、オレたちにはどうにもできないんだ』と断った。しかし少年も必死だった。自分が助かるには、父を足止めしなくてはならない……。 『父を逮捕してほしいなんて言いません。家を調べてほしいんです。母が殺されたことが分かれば……』  家を調査してもらえば、その後も警察が動かざるを得ない状況になる。そうすれば、いずれ父は逮捕される。しかし訛った警察官は、困り顔で少年を見やった。 『同じ国でも、町が違えば調査も取り締まりも難しくてな……。ボウヤの町の警察署に手紙くらいは出してもいいが、伝書鳩で二日はかかる。ボウヤの証言で調査に乗り出すまで、どれくらいの時間が必要かもわからない。……それでもいいか?』  酷く消極的な役人たちだ。少年はこの国の警察官に失望したが、話を聞いてくれた訛った警察官を悪人だとは思わなかった。「それでもいいから手を尽くしてほしい」と頼んで、そこを立ち去った。その町に留まる気は微塵もなかった。首の後ろの産毛がちりちりと逆立ち、嫌な悪寒が止まらなかったから。  父が殺しに来る。少年はそう確信し、自分の持っている情報を警察官に渡して、早々に西へ歩き出した。西には歌と踊りの都、ファレストがある。少年が住むラヴィーカルド王国の首都だった。  森を越え、山を越え、時折親切なキャラバンに乗せてもらって。三日前にようやく辿り着いた。ファレストは煉瓦造りの街並みだった。大通りでは「魅了人」と呼ばれる芸人が歌や踊りを披露して賑わせていた。でも夜になればそれも止み、葉擦れの音と獣の気配が満たす。  昨日までは「父に見つかるのでは」と考えたら心臓がうるさかった。でも今は「死んだ方が楽かもしれない」とぼんやり考えるようになった。そうすればこの寒さも空腹も忘れられる。  どうして父が母を殺したのか、少年には皆目検討もつかない。事件が起こる日の朝まで、両親は仲が良かったように見えていたから。それに少年の家は生活に困るような家庭でもなかった。だからお金絡みの問題ではない。  夕方、母の手作り料理を楽しみに帰路に着く同年代の子供たちを見ると、胸の奥がチロリと痒くなった。あの子たちには居場所がある。少年にはない。五月の頭に失われた。  未だに父レンウェルの逮捕の話はない。ジイダ家の事件も、噂さえ耳に入ってこなかった。故郷から離れたせいだと何度も言い聞かせたが、ジイダ家で殺人が起きたことくらいは人々の話題にのぼってもおかしくないのではないか、とも考えた。……それともジイダ家が庶民だから話に出ないのだろうか。  だが、もうそんなことはどうでもいい。少年は生きることに疲れていた。父に怯えながら過ごすのも。  霧雨のせいか、カビのようなにおいがする。掃き溜めのような路地裏に座り込んで鼻が馬鹿になったと思っていたが、存外まだ細かに選別ができるらしい。      ごぉん、ごおん……と重い鐘が頭の中で何度も打たれる。痛みに目を開けるのも億劫になり、瞼を閉じれば、自分が座っているのか寝ているのか曖昧になっていく。においなんてどうでもよくなった。意識が飛びそうで飛ばないもどかしさに苛立つ。早く楽にさせて。暗闇の中で死神が大鎌を振るわずにニヤニヤと嗤っている。早く殺して。意識の糸を、切って。  少年は現実も夢も混ざりあって、早く、早く殺してと急かす。もう疲れた。父なんてどうでもいい。それよりも楽になりたい。ずぶずぶと死の沼へ沈んでいく少年へ、死神は大鎌の先を向けた。  だが死神ではない、別の神はここで少年を死なせはしなかった。 『…………い……………………かな?』  声が、聞こえた。年老いた声。 『わ、…………え……………………か?』  少年は返事をしなかった。死の沼にくったりと身を預けていた。  口に液体を注ぎ込まれる。 (にが…………ん……………………っっ!?)  カッ、と目を見開く。舌に残るこの世のものとは思えない味。涙がボロボロと溢れだし、舌を引っ掻いて苦味を取り払おうと努力した。結局無駄だったけど。 「おや、ようやく目を覚ましたか」  ……のちに少年を引き取ることになる年老いた薬屋は、この時カッカッカッと笑っていた。
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