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重くだるいからだを引きずるように、リビングを通り小さなキッチンに入った。無駄なものはなにもない無機質なキッチンである。
やかんに水を半分入れてお湯を沸かす。IHコンロは全く色を変化させずにお湯を沸かすだろう。
リモコンでオーディオを付けた。クラッシック専門チャンネルにチューナーは合わせてある。バロック音楽がキッチンに流れる。
本物のクラシカル・クラシック。遠い過去の音楽だ。
「バッハ、ヘンデル、スラルラッティ」
独り言を言った。一人暮らしのため、必要がなければ一日話さないこともある。そんな日の夕暮れは、自分の声が変に聞こえるものだ。くぐもって、家鴨が鳴いているような声に。
だから仕事に出て変な声で顧客に応対をしないために、朝のうちからウォーミングアップをしているのだ。
「次の曲は小鳥に説教をする『アッシジの聖フランチェスコ』です」
人工音声のアナウンサーの言葉をオウムのように真似をした。
やかんが音を鳴らした。骨董品のようなやかんだが、丸いフォルムに癒されてネットで購入した。スイッチひとつでお湯も水も出るのだが、お湯を沸かす行為は儀式にも似て、麻子の落ち着く時間のひとつなのだ。
ティーバックをひとつ。お湯をそそぐとみるみるうちに、金茶色が広がる。鼻腔に香りもやってくる。一口すすり、
「あつッ」と、カップをシンクの上においた。紅茶が少しこぼれた。
麻子は紅茶を冷ます間に、カーテンを開けにリビングを横切った。
灰色のドームの屋根がかつての青い空を遮っていた。
この世界は、ドームに守られ、ドームによって自由を奪われ、ドームに依存している。
今日の顧客は、とまた思考をもどす。
老女である。大腿部骨折のあとをボルトで固定していた。しかしその部分がどうにも痛むらしい。この日の受診は既に本人が予約済みである。
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