第1章

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 ほーぅそうか仕事より旦那様かほうほほーぅ、と上司でもそばにいたら睨まれそうな言葉に合わせてエンターキーをポンと押す。うにぃー、と背筋を伸ばして、目頭を揉む。それから高校の時に友人とどこかの陶芸教室で作った黒猫柄が入ったマグカップに手を伸ばし、中のコーヒーを飲もうとして、 「入ってねぇーとか、マジ勘弁」  残業中の一人という時間、大竹は昼間のような気遣った言葉づかいをしなくなる。  裏表があるわけじゃない。女にはスイッチがあるのだ。セックスの時に男を盛り上げる為にわざわざ可愛い声を出してやるのとおんなじだ、と本人は思っていた。実際あれは、自分自身を盛り上げる鼓舞にもなるのだよ、とも。  大竹は目当てのものが入っていないマグカップを憎々しそうな視線でねめつけて、脱力つきの溜息と一緒に席を立った。夜も十一時を回って、もうすぐ十二時のこの時間。窓から見た外は、いつ降り出してもおかしくない厚さの雲が雨をため込んで空を覆っていた。 「本当に嫌になる。残業深夜に曇天の空とか。ドSかって。好きじゃないのよね、雨。――どっちかって言えばぁ、攻められるより攻めたいタイプぅ、みたいな? きゃはー」  そんな重たい曇り空を見れば、一人芝居だって衝動的にしたくもなるのかもしれない。  しかし、そのあとの気分といったら、言いようなんてありはしないものだ。 「って……ああもう、何やってんのよ、私ったら」  はあ、とさっきよりも重たい溜息を吐きだし、大竹は肩を落として給湯室に向かう。  本当に、今が一人でよかったと思いながら。  給湯室で熱いインスタントコーヒーをいつもより濃く入れて、苦い汁で舌を焦がしつつオフィスに戻る。あちち、とベロを出してフーフーと息を吹きかけるその姿が案外研究所内で人気があることを知らない大竹は、それが原因で一人もやもやすることもあったり、なかったり。  オフィスに戻り、右手でカップを持ちながら扉を閉める。残業中で誰もいないのだから開けっ放しでも文句を言われる事はないのだが、こういうところで癖は出る。  その時だ。  オフィスの扉を閉めた直後、大竹は違和感に襲われた。  グワン……ッ、と。  めまいを起こした時のように足元がおぼつかなくなり、どこかの科学博物館にある平衡感覚を狂わせるアトラクションにでも迷い込んだように、ととっ、と足が下がった。頭に小さな痛みが走る。
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