第1章

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「……ったく、ほんと勘弁してよ。歳? もう歳なの、二十六は?」  自分の体に文句を言いながら大竹は頭を振った。残った仕事もあと一息で終わるところなのに、ダウンなんてしていられない。寝るなら硬いデスクの上より、自宅の柔らかいベッドが良いに決まっている。  大竹はふうと息を吐き出して、むっと体に力を入れた。 「さあて、書類もあと八枚。ちゃっちゃと片付けますかー」  止めていた足を動かし、自分の戦場へと進む大竹。離れた所から見ると、デスクライト一つに照らされている自分の机が寂しそうに見える。 (って、デスクが可哀想とか、なに考えちゃってんだろ)  ばかばかしく口元を曲げ、呆れた様に鼻を鳴らす。  そして、デスクの前に戻ってきた大竹は。  デスクの上にコップを――黒猫の柄が入ったマグカップを見つけ――、 「え?」  頭の中が瞬間的に白くなった。  自分が今、何を見ているのか、分からない。  だって、いま見ているマグカップは。 (私がこの手に持って……ッ!)  途端、汗が噴き出した。  口角が不気味に持ち上がり、何匹もの百足が這いあがるような悪寒を背中に感じる。  理解できなかった。  理解したくなかった。  理解した瞬間、自分がどうなるのか知りたくなかった。 「意味、分かんない……」  緊張が一気に張り詰め、コーヒーで潤したはずの喉がねっとりと張り付く。  誰かの悪戯(いたずら)かと一瞬考えるが、そんなことないとすぐに否定できた。  だって、いま大竹が持っているカップはこの世に一つしかない、手作りのものだ。かりにこんな悪戯を考え付いて誰かが3Dプリンターで作ったにしても、このタイミングで悪戯を仕掛ける理由がない。何かしらの理由がなければ、人は行動しない生き物だと二十六年ほどしか生きていない大竹も、大方理解していることだ。 (だったら、目の前のこれは、なに……?)  大竹の混乱が極まったのは、そのときだった。 「ぁ――ッ!」  体が震え、呼吸が荒くなり、ガクガクと揺れる膝。尻餅をつくまいと隣のデスクに手をついて体を支えるが、咄嗟の事に持っていたカップを落としてカチャン、と割ってしまった。  奇妙な事は、その直後。  カチャン、と。  デスクの上のカップも同時に砕けたことだ。  目を見開き、大竹は現象を見つめた。  頬が引きつり、自分が出すとは思っていなかった短い悲鳴が、ヒッと漏れる。
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