淡月記

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淡月記

 だめだったか。  男は目覚めると、細く震える声で独りごちる。ならば、戻れというのか、あの監獄に。とても戻れない、あそこでは俺の尊厳など塵芥に等しい。  男は自分を庇うように己の肩を抱こうとするが、抱くための腕も、抱くべき肩もそこにはない。  どういうことだ。やはり俺は……。  意識ははっきりとしているが、自分の体は存在しない。いや、認識として体の輪郭はあるが、広大な海の一部として漂っているような、無限と一体化したような、不思議な感覚だった。  きっと死ねたのだ。  男は、自分が死後の世界にあるのだと理解した。  逃げられた。安堵と薄暗い喜びが男を包んだ。生前にため込んだ不安や辛苦、恐怖によって傷付き果てた男は、不思議な心地よさに満ちたその空間で、静かに目を閉じ漂った。 何も考えたくなかった。思考を捨て、擦り切れた心を安寧に浸し、怠惰に溶かして、ただ漂った。悠久の時間と安らぎを貪った。それは、赤子が母親の乳首にしゃぶりついて肥え太ろうと一心不乱に乳を吸う、生命の営みになにやら通じる所作だった。     
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