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白銀が月光を受けて風を切る。片脚で立て膝を付き、右手の剣先を相手の、女のような白い首筋に据えた。動かない筈の熱い身体が嘘の様に反応した。
火事場の馬鹿力ってこれじゃか?
どうでもいい事が思いつく程、それこそ嘘のように頭は冷えていた。だが、捉らえた気になっていた男は誰にも構っていられるかと言わんばかりに一瞥だけ残して去った。
ナメんなや……!
遠ざかる影に、流れる黒髪に舌打ちをした。
一心に池田屋へ急ぐ男。
対して逃げる男の脚は、長州藩邸にはもう向かわなかった。
どうして……わしが生き残ったんじゃ……?
この躯が、どんなに疾く駆けようと。
この躯が、どんなに力強く薙ぎようと。
志が空では意味が無い。
葦原は順調に回復していた。医者で手当を受けた後は旅籠に泊まっている。だがそこは以前の長州贔屓の宿では無く、佐幕派・討幕派どっち付かずの宿だ。
あの夜……池田屋以来、知り合いには誰にも会っていない。
毎日を抜け殻のまま過ごした。傷が痛む度、自分を責め続けた。
……わしの生きる意味ってなんじゃ?
自問を繰り返す。
葦原が尊王攘夷派として奔走していたのは、真に国を憂いての事では無かった。仲間が居たから……。翔野が居たから、加わっていただけの事。
一応父は武士だが、自分としてはこの日本がどうなろうと、はっきり言って知った事では無い。そんな事を本気で思いながら、幼馴染みで、義兄弟の契りまで交わした翔野に連いて来た。
自分の志なんて有りはしない。仲間ももういないのに、戻る気なんて更々起こらなかった。
……わしの生きる意味ってなんじゃ?
――……
「アイツは……沖田総司に……」
――……
何度も心の底で繰り返した、あの時の言葉。
……沖田……総司。
そうじゃ……奴がいた……。
……奴を……仇を討つ……!
あっさりと、それが葦原の生きる目的となった。
襖の外から女将に声を掛けられた。
「葦原はーん? お客はんがおこしどすぅ」
普通、武士が泊まっている宿に客が来れば、斬り合いでも始めるのでは……と警戒される所だが、倒幕派の定宿ではない為か女将はすんなり二階に通した様だ。
客……?
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