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すると英斎は、突如、道を外れて進みだし、そのまましばらく行った所で立ち止ると、優しく沙織を地に降ろした。
──そこは、夜の闇に静かな波音を響かせる、山中湖の湖畔だ。
「教会へは戻らない方が良い」
沙織の顔を見るに見れない感じで、つまり照れ臭そうに英斎は言った。
「そなたらが眠らされている間に聞いた祥仙の話によると、奴らの本当の狙いは処女の生き血──。つまりの所、そなたらの命らしいのじゃ」
この説明を受けて、沙織の方も、その童顔の頬をポッと紅く染めた。
「いや、先程も申したように心配は無用。わしと一緒にいてくれさえすれば、奴らには、そなたの躰に指一本触れさせはせぬ!」
まるで愛の告白でもしているかのような英斎の熱心な声に、沙織は戸惑いの表情を浮かべた。
英斎の言わんとしていることは理解しているのだが、まだ祥仙の洗脳が解けていないのだ。
「でも私…。祥仙様の為、いいえ、神の為ならば生け贄になることも──」
沙織の言葉を途中で遮るように、英斎は声を張って叫んだ。
「それはならぬ!」
あまりの英斎の迫力に、そしてその真剣な表情に、沙織はただ言葉を飲んだ。
「そなたは清く美しい──。わしは年甲斐もなく、そなたに恋をしてしまった──」
ぎこちのない言い方ではあったが、今度は正真正銘、愛の告白。しかもその年齢差は、八十近いのだ。
「たとえ、そなたに恨まれることになろうと、わしは愛するそなたを奴らには渡さない」
意外にも、沙織の方も真剣に英斎の告白を聞いている。未だ祥仙への服従心に捕らわれ続けてはいるが、英斎の熱意に心を打たれているのは事実のようだ。
その沙織の目を真っ直ぐに見つめて、力強く英斎は言った。
「この柳根英斎、命に代えても、必ずそなたを守り抜いて見せる!」
沙織の頬には、涙がこぼれていた。なぜ泣いているのかは、自分でも分からなかった──。
○
呆気ない出来事であった。
「俺としたことが…、少々のぼせておったようじゃ…」
そう言って沙織の目の前で膝から崩れ落ちた英斎の背中には、たった今、背後から突き刺されたばかりの短刀が、その柄の部分だけが覗いていた。
ましてその刃には即効性の毒でも塗ってあったか、英斎はピクピクと呼吸困難を起こしている。
「まったく、手間を取らせやがって──」
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