一 『五感夢中の術』

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 少々イヤらしい目つきで、ニタリと笑みを浮かべたぜい肉少年は、なんと無謀にも、自転車の美女の後を、走って追い掛け始めた。  ──いや、これが無謀ではなかった。 女性とは言え、相手は全速力の自転車。ぜい肉の有無に関わらず、走って追い掛けるのは至難の業と思われるが、それをこのまん丸少年は、涼しい顔でやってのけたのだ。  走っているようには見えない、靴底にローラーでも着いているのかと思える走法は、前を行く自転車の速さにピタリと合わせた速度だが、本気を出せばすぐにも追いつけそうな余力さえ感じさせる。 「しかし、これほど早く見つかるとは、何とも俺は運が良い」  分厚い二重あごでニンマリと微笑みながら、息一つ切らさずに、丸い少年は独り言を続ける。 「岡崎優奈か。思った以上に美しい女だ。この丸根貫斎(まるねかんさい)、一目惚れしたぞ!」  ──丸根貫斎の言う通り、自転車の美女は、山梨県忍野八海で突然消息を絶った岡崎優奈本人であった。  その忍野村にある、とある洋風の建造物の前で、優奈は自転車を止めた。  それを見て、貫斎も少し離れた所で足を止める。 そして、優奈が入って行った建物の、その尖った屋根と、吊された鐘、掲げられた十字架を見上げると、また一人呟く。 「教会か?」  これまた、その体型からは想像も出来ない身のこなし、ゴム鞠みたいにポンポンと弾んだ貫斎は、あっと言う間に教会の高い屋根の上まで跳ねて登ると、明らかに彼の躰よりも枠が小さいステンドグラスの窓から、けれどニューッとぜい肉を絞るようにして中に入って行ってしまった。        ○ 「案外、早かったな、貫斎──」  教会の中に入った丸根貫斎は、自分よりも先にそこに忍び込んでいた老人に、だから少々嫌味っぽく言われてムッとした顔になった。 「老いぼれ爺さんに後れを取るとは…」  嫌味に嫌味で返した貫斎をジロッと無表情に睨んだ老人は、それからニマリと唇の端で笑った。 「青二才が負け惜しみを…。この柳根英斎(やなぎねえいさい)、九十を越えた今こそが人生最盛期じゃ」  驚愕であった。細くて長い胴から正に柳の枝のような四肢が生えた老人は、確かに見るからに老人ではあったが、しかしその肌艶はとても九十を過ぎているとは思えない。
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