22.なんでお前が泣きそうなんだよ

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22.なんでお前が泣きそうなんだよ

 奥のテーブルまで連れてくると、ぱっと手を離される。先にソファに腰掛けたリューアの手が、ぽんと隣を叩いた。ここに座れというのだろう。  ソファが広いのをいいことに、少し離れて座る。手は届くが隣じゃない微妙な距離感に、リューアの表情が変わった。なんか嫌な感じがする。  引き寄せられないよう、もう少し移動した。  すぐ隣はガラス窓で、眼下の景色はさながら箱庭だ。綺麗だが偽物の安っぽさが好きじゃない。美しいだけのガラス細工を見ると壊したくなる感覚に近いのか。咲いている花を踏み躙るときに似た衝動が背筋を走った。  やばい、なんかゾクゾクする。  自分を抱くように腕を掴むと、リューアがグラスを傾けていた。ごくりと動く喉に、ふと渇きを覚える。 「リューア、オレにも…」  ところが機嫌を損ねたリューアは視線を寄越すが、グラスに触れようとしない。すぐ目の前にあるのだから、渡してくれればいいものを。  なんて大人げない奴だ。 「ケチ、自分で取るからいい……え?!」  グシャ、カシャーン。  何かが崩れ、ガラスの砕ける甲高い音が響く。それから右肩が熱くなって――  ダーン!  遅れて届いた銃声に身を丸めて転がる。反射的な行動だった。考えるより早く背を丸めた身体が、さっきまで座っていたソファの影に滑り込む。  ビルの谷間で木霊したのか、もう1回銃声が響いた。 「きゃぁああぁあ!!」 「ルーイ!?」  耳障りな女性の悲鳴で、やっと自分が撃たれたのだと気付いた。床に倒れた際に打った腰が痛いが、肩はまだ熱いだけ。 「リヴィ!」  2人きりじゃないと使わない呼び名が出るほど取り乱したリューアの声に、口元が緩んだ。へえ、人並みに人間らしい部分もあるんだな。失礼なことを考えていると、リューアの腕がオレを抱き起こした。動かされたことで、急速に痛みが追いついてくる。 「……つッ」  涙声のエリシェルも、こんな焦ったリューアも初めて見た。うっすら開いた視界に、リューアの黒髪が広がる。状況を忘れて手をのばしかけ、痛みに動きを止めた。その手をリューアが握り締める。  ぼんやりしていた意識が、ふわっと戻ってくる。引き戻されたとたんに激痛が灼熱を伴って全身を襲った。 「…っく」 「意識はあるか?」  もう冷静な声に戻ったリューアは残念だが、しっかり頷き返した。呼吸すら熱くて怠い気がして、眩暈が嫌な浮遊感となってオレを包む。 「早く医師を呼べ」  リューアの命令は、きっともう実行されているだろう。こういったホテルは、専属のドクターが常駐しているはずだ。ましてやパーティーがあれば、急病人を想定して準備している。もっとも、銃創なんて専門外で無理だろうが。  傷の状態を確かめるSPの手が触れるたび、悲鳴を上げそうなほど痛んだ。 「か、つうはしてな…いだろ……?」  自分の傷の状態くらい把握できる。スナイパーなんて危険な仕事を選んだ以上、銃でケガをすることも初めてじゃなかった。この銃弾は貫通していない。 「はい、手術が必要です。右肩のほかに痺れがありますか?」  不安そうな声色に、右手の指を動かしてみる。親指から小指まで1本ずつ折りたたんで広げた。大丈夫だ、問題なく動く。  首を振って痺れを否定すれば、SPがほっとした顔で息を吐いた。リューアが髪紐を解いて渡すと、SPは慣れた様子で止血を始める。ぎゅっと縛る動きに顔をしかめた。  生理的な涙が滲み、視界が歪んでいく。左手を握るリューアの手に爪が食い込むほど強く握り返した。そうしないと意識が飛びそうだ。  痺れていないことは、現状で唯一の救いだった。痺れが痛みを凌駕すれば、オレの右腕は神経を傷つけた可能性が高まる。二度と動かせなくなるってことだ。SPの心配はもっともだった。  ふと上にいるリューアの影が気になった。眩しくない窓の方角を確かめると、リューアの心配そうな顔がある。オレを守る形で窓を背にするリューアの位置に、オレはぞっとした。  オレだって狙撃手だ。誰を狙った銃弾か、着弾地点や撃ち込まれた角度から見当がつく。  脳裏を過ぎるのは直前に増やされた護衛、エレベーターでの不自然な事故、会長室の爆弾騒動や狙撃……どれをとっても、事実はひとつだった。  ――狙われたのは『ランクレー家当主、ティン・リューシア・S・ランクレー』。  今回の狙撃は、スナイパーにとって予想外だっただろう。おそらくグラスに手を伸ばして立ち上がったオレが、銃弾の通過コースを妨げた。  本来、この激痛も銃弾もリューアが受けるはずだったんだ。 「そっちは……ヤバイ、だろ」  まだ長距離ライフルが狙ってるかも知れないってのに――このバカがっ! 世界で一番狙われる立場への用心が足りない。  必死に整えた息で告げ、掴まれた左手を振り解いた。そのままリューアの襟を掴んで引き倒そうとする。しかし奴は「大丈夫だ」と即答して後ろを見せた。  我が身を盾にした5人のSPが目に飛び込み、オレは深く息を吐いた。 「ちきしょう……なんだ、ってオレに、当た、んだよぉ――うっ、マジで痛ぇ……」  安全を確認した途端に、文句が口を突いて出る。一言ごとに激痛が走るが、それでも並べる文句は尽きない。話していないと意識が飛びそうで怖かった。  周囲は煩いし、エリシェルは泣いてて、リューアは優しすぎて怖い。 「くッ――痛……ぃのは、嫌な…だって、ば。だいたぃ……リュ……ァのせい」  オレの言いたいことを察したのか、リューアが身を屈める。人前なのに何をする気だ? 彼の長い黒髪は解けていて、髪紐を止血に使ったことを思い出す。彼の黒髪が覆いかぶさった。 「すまなかった…」  左の耳元で囁かれ、乾いた唇同士が重なった。そのまま離れても、オレは何も言葉が見つからない。罵ることも忘れて目を見開いた。  謝ってもらえるとは思わなかったし、そんなつもりで言ったわけじゃない。不気味じゃないか……素直なリューアなんて。傲岸不遜、唯我独尊、まさに世界の王様といった風情の男が…お気に入りのペットのケガに謝る?  驚きすぎて息が止まったらどうしてくれる。  オレの右肩に負担をかけないよう気遣いながら、奴は激痛に滲んだ涙を唇で掬い取る。大きく深呼吸した奴は振り返ると、盾になっている男たちを叱り飛ばした。公衆の面前だが、別に理不尽な怒りじゃない。 「情けないっ! それで私を守るつもりか?! 今日中に犯人を割り出せ!」 「はっ、はい」  数人の足音が慌しく遠ざかる。駆け出す男たちの号令と、オレの名を呼ぶ見知らぬ女の声が頭のなかで反響していた。ひどく気分が悪い。冷や汗が止まらず、貧血もひどい。  痛みを最小限に抑えながら抱き上げるリューアのスーツに、赤い血のシミがついた。自由になる左手でそっと触れる。 「どうした?」  ベッドぐらいでしか聞けない優しい声色と、心配そうな眼差しに苦笑する。なんでお前が泣きそうなんだよ、泣きたいのはこっちだ。熱に乾いた唇を開く。耳を口元に寄せられ、吐息に混ぜた言葉を吐き出した。 「……スーツ、汚しちまったな。気に入って…たんだろ?」  弾かれたように目を合わせるリューアの蒼い瞳に笑いかけるが、すうっと意識が霞む。とっさにリューアの頬に手を伸ばした。血塗れなオレの手も、触れた温もりも、ぼんやりと輪郭を失い……意識は右肩の熱に吸い込まれて消えた。
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