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―美しいものは死に近い。あるいは死に近いものは美しいのだ。
彼女と初めて交わした会話はそんなことだった。当時芸術の繋がりを持っていなかった僕は柄にもなく高揚し、生まれて初めてお酒で失敗した。あの時の僕のことを、彼女はいまだに「夏の終わりの蟹のようだった」と揶揄う。その例えはあまりにその通りで、僕は毎度顔を赤くして黙り込むことしかできない。
「だけど僕は、空蝉のことをどうも美しいとは思えないんだ」
空蝉に虚ろで曖昧な現世を見たあの詠み人は、きっとその姿に儚い美しさを覚えたのだろう。だけど僕にはそれがわからない。“あれ”は僕からすると、生よりも生を感じる存在なのだ。
「美しいというよりかわいいものね、あれは」
「かわいい?」
「かわいい。必死に葉にしがみついて、きっとずっと死なないから、かわいい」
「なるほど。かわいい、ね。かわいい」
かわいい。その一言は、すんなりと僕の臓腑に落ちていった。かわいい。かわいい。かわいい。かわいい。かわいい。
反芻するほど、それは僕の言葉に対する誠実を簡単に壊してしまう悪魔のような存在に思えた。僕が美しいと思えないものすべてが、かわいいという言葉で伝えることができてしまうような気さえするのだ。
「ノスタルジーって、日本語だと何になるのかな」
少しだけ西に傾いた太陽が彼女の顔を照らす。こういう時、彼女はシャッターを切りたくなるのだろうと、なんとなく思った。
「そうねえ」
彼女の、考える時に鼻をかく癖が好きだ。美しいとさえ思う。この感情は、後にのすたるじぃとして存在するのだろう。それでも一日の終わりに彼女の姿を見ていられるこの感情を、そんなよくわからない言葉にしてしまいたくなかったのだ。
「君はお世辞にもかっこいいとは言えないし、死にそうにも見えない。それでも君が一番美しいと思うの」
なんでだと思う、と彼女は笑い、すっかり冷めてしまったコーヒーに口をつけた。
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