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フロントガラスに触れた雫は、すぐそばの水滴に吸い込まれて大きくなった後、形を変えて平たくなると、自重に堪えきれず、更に下の雫と合わさって一気にフロントガラスを滑り落ちた。
黒い影が大きくなり、焦点を車外にやると、黒いワンピースを着た女性が足早に近づいて来る。確かに私の方に視線を合わせている。どこかで会ったことがあるようにも思える。既に私はエンジンをかけ、駐車場から出る準備をしていたところだったが、ウィンドーを開け、顔を出してその女性に声をかける。
「どうしました?」
女性は運転席側に歩み寄り、人慣れした笑顔で答える。
「すみませーん、実は、バッグを置き引きにあってしまって、サイフもカードも何も無いので、方向が同じでしたら、大変申し訳無いのですが乗せて頂けませんか?」
これからアパートへ直帰する予定だったので、県内なら、という事で彼女の申し出を快諾する。彼女が助手席に乗り、微かにいい香りがしている。
「大変ですね、……」
車を出しながら、一瞬、彼女の方を見る。
「どちらに送れば良いですか?」
彼女の髪は小雨にあったせいか、夜の街灯に煌めいている。
「すみません、とりあえず、三号線を西に向かって頂けますか?」
こちらを向いた彼女の瞳は、付き合い始めた恋人のように好意的に見える。
「え?ああ、東ね。」
答え方がおかしいと思ったが、場の雰囲気を崩すまいと、私は素直に彼女の言う通りに車を走らせる。
「携帯も持って行かれたんですか?」
彼女の瞳を見る。
「ごめんなさい……」
彼女は俯いて、泣き出すのではないかという面持ちだ。
「ああ、気にしないで下さい、どうせ暇なんですから。」
バッグを盗られたからか、親切を受けたためか、それにしても泣きそうになるのはどうかと思う。
「そうじゃなくて、嘘なんです。」
「は?……」
私は彼女の次の言葉を待つ間、刃物を出された場合にどう対処するかということまで考える。
「いや、嘘って、置き引きのこと?」
彼女は私の目を見て、涙を流している。
「ちゃんと話してよ、何んにも分からないから、ね?」
「全部、嘘なの。」
きっぱりと、事務的にも思える口調で彼女は言った。沈黙の車内に、ワイパーが往復する音とタイヤホールに雨水が跳ねる音ばかりが響いている。
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