0人が本棚に入れています
本棚に追加
会社のある街は当時から繁華街として賑わっていて、金曜日とはいえ平日の午後であるのに人で溢れかえっていた。ぶつかりながら愚鈍そうに進む私と器用に人と人との間をすり抜けていく彼女は、普段の仕事ぶりを反映しているようで、ますます自己嫌悪に陥った。彼女は大通りを抜けて小道に入り、レトロな建物の前で立ち止まった。
「甘いもの、好き?」
「あ・・・はい。」
首を縦に振る。そういえば、自分はケーキやクッキーが大好きだった。最近は全然食べていないのだけど。食べようと思う気持ちがわかないのだ。
アンティーク調の店内に入ると、茶髪の店員が笑顔で出迎える。二名です、と彼女が伝えると、席に案内された。当時でも珍しい振り子の大時計の隣の席だった。彼女はメニュー表を私に差し出し、『季節のフルーツパンケーキ』がおすすめだと言った。パンケーキは大好きだ。じゃあそれで、と言うと、彼女は頬を緩めた。自分のおすすめが受け入れられたことが嬉しいのだろうか。いつもクールな雰囲気だったから、このリアクションは意外だった。
「お待たせ致しました。」
並べられた二つのパンケーキは旬のフルーツが盛りだくさんの可愛らしいもりつけだった。今だったらスマホで写真でも撮っているだろう。フォークで容易に裂くことができるほどのやわらかなそれを口に入れた瞬間、ほのかな甘さが口の中に充満する。生クリームはしつこすぎず、ミルクの甘さが感じられる。旬のシャインマスカットは甘酸っぱい。自然と至福の表情になる。
その顔を見た彼女が笑った。私の目の前にいる人が笑顔だったのは、久しぶりだ。
就職を機に一人暮らしを始めた。もともと社交的でない私は友人が少なく、休日も何もすることもなく一人でいることが多かった。私が職場で発する言葉はだいたい謝罪の言葉ばかりで、目の前にいるのは眉を顰めた上司か先輩のどちらかに限られる。人の笑顔を目の前に見たのはもしかしたら夏休みの実家への帰省以来ではなかろうか。
最初のコメントを投稿しよう!