零 『鴉天狗?』

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 同僚、イワトーノフの説教を適当に聞き流しながら、ロシアスパイのマリチョフは、またニヒルな笑みを浮かべながら言った。 「まぁ、港に降りればお前にも分かるさ」  それには無反応で、イワトーノフはギロリと眼の奥を光らせながら訊いた。 「それで、引継はあるか?」 「いや、相変わらず日本は平和ボケした、のんきなお国柄だ。スパイ活動するにも張り合いがない──」  マリチョフは、ちょっとさげすんだ顔で小樽の港を見下ろしながら、けれど何かを思い出したように言った。 「ただ、一つだけ面白い噂を耳にしたな」 「噂?」 「あぁ。日本の警視庁には、”忍び組”なる隠密組織があるとな」  イワトーノフの片眉が持ち上がる。 「忍び組…?」 「要するに、警視庁が抱える忍者組織だ」  眉の位置を戻してイワトーノフは言った。 「それが本当ならば、その中身がどのようなものか、覗いておく必要があるな」 「あぁ。俺も色々探ってはみたんだが、なにしろ相手は忍者、影は見えても、なかなか尻尾を出さん」  今度はイワトーノフの唇の端が持ち上がる。 「ほう。確かに面白い──」 「だろう。俺の日本潜伏中にも、いかにも警視庁の忍者集団が絡んでいそうな、奇妙な決着を見せた事件がいくつかあった」  唇の位置を戻してイワトーノフは言った。 「ではひとつ、俺の任務期間中に丸裸にしてやろう。その警視庁忍び組とやらをな」  ──彼らの接触は、時間にして数分。 やがてふたりは、さっきまでイワトーノフが入っていたコンテナにマリチョフが入り、さっきマリチョフが伝い登って来たアンカーの鎖をイワトーノフが伝って降りる、と言う形で別れた。           ○  ──同年同月同日、静岡県沼津市。 その中心街からは少しだけ外れた場所にある香貫山は、散歩の延長で登れてしまうような、小さな小さな山である。  それでも頂上の展望台からは富士山や狩野川が、それに駿河湾や沿岸の街並みまでが見渡せ、美しい景観が広がっている。  その、展望台へと続く遊歩道を、ひとりの女性が登って行く──。  空はうっすらと青くなりかけているが、しかしまだ日の出前。いくら健康ブームとは言っても、まだ普通の人間が動き出す時間ではない。  更に妙なのは、女性が全身黒づくめで、顔にはお面を被っていること。
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