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おどおどと震えるエリート男は蛇に睨まれた蛙、その場に立ち尽くしたままだ。
──いや、これは精神的な理由からではなく、物理的に身体が硬直しているようなのだが、どうやらそれが獣男の仕業らしい。
不動明王のような恐ろしい形相で、獣男の右手が作っっている形は降魔印。
降魔印とは、お釈迦様が悪魔を退治した際に結んだ印と言われ、その形は、一本だけ伸ばした人差し指を地に着ける、と言ったシンプルなものだ。
これを今、獣男は目の前のエリート男に向けて行っている。
この場合、悪魔ならぬエリート男が退散する気配はない。いや、叶うならば退散したいのだろうが、獣男の降魔印には相手の動きを封じる効果があるようなのだ。
その効果は印を解いても尚、継続するらしく、身動き出来ないエリート男を、だから容易く捕まえて、ヒョイと頭の上まで持ち上げた獣男は、そのまま彼を高層ビルの屋上から、そのフェンスの向こうへと放り投げてしまった──。
それから獣男は、またしてもニターッと醜い笑みを浮かべたかと思うと、突然、バネのように大きく跳ねて飛んで、自らも屋上のフェンスを越え、夜の闇の中へと消えてしまった。
無論、これは下に落ちたのではなく、ムササビみたいに隣のビルの屋上へと飛び移ったのだが、幹線道路を挟んだ先にある隣のビルまでの距離は、実に二十メートル近いのだから驚愕。とても人間業とは思えない。
まして、その直後に、獣男の後を追うように、同じく東京の夜空を舞った、確かに人の影がもうひとつあったとなると、もはや常識は常識ではないのだろうか。
ただ、こちらもすぐに闇に溶けて、常人の眼ではその姿を最後まで追うことは不可能であった──。
○
「ご無沙汰しております、半蔵さん」
礼儀の正しい声が、耳に心地よく言った。
「──柳生三十九兵衛でございます」
今時、冗談みたいな名前だが、しかし彼の血筋には、かの柳生十兵衛がいる、と聞けば納得がいくだろう。
もっとも、歴史小説などでは、柳生十兵衛は豪快で男臭く描かれることが多いが、この三十九兵衛はと言えば、むしろ美しい顔立ちをした好青年だ。
まだ十代にも見える若々しさで、今はキッチリとしたスーツ姿をしている。
「うむ。しばらく見ぬ間にすっかり大人っぽくなったな、三十九兵衛」
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