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伊賀忍者 蛇丸
○
__伊賀忍者 蛇丸は見た。
煮鮑を肴に、なみなみ注いだ熱燗を豪快に飲み干した信玄の姿を。
間違いない。
天井裏から窮屈な体勢で覗き、まして天井板の節の穴を通した狭い視界ではある。
だがしかし、あれは決して影武者などではない。
もしや死んでいるのではないか、と言われている武田信玄その人だ。
伊賀の蛇丸は徳川の使いで武田の偵察にやって来た。
まさに、信玄が生きているのか死んでいるのかを確かめよ、と命じられたのだ。
その名の通り、蛇のようにヒョロ長い男で、ちょっとした隙間さえ見つければ、ニョロニョロと躰をくねらせて、何処へでも侵入してしまう。
今もそうして天井裏に忍び込んだのだった。
__蛇丸は聞いた。
本物の信玄が、影武者のニセ信玄を呼び寄せる野太い声を。
信玄は言った。
「三年喪を伏せよ__。
と申して既に死んだ。
ということにせよ。
余がそのように言いつけてから、そろそろ半年になるか。
うぬら、なかなか上手くやっているようだな」
ニセ信玄は頭を垂れて答えた。
「はい。
世間はすっかり目を白黒とさせております…」
影武者を務めるだけあって、その体躯や顔つきのみならず、声も本物の信玄によく似ている。
「__楽しい」
信玄は噛みしめるように言う。
「余がこの世におるように見せかけながら既にこの世におらぬ事とし、
その実、こうして酒など呑んでピンピンしておるこの状況が、
余は楽しくて仕方がない」
ニマリと貫禄のある笑みを浮かべながら、煮鮑の切れ端を口に運んで咀嚼し、信玄はまた言う。
「余は自由だ。
戦国の世のしがらみから解き放たれ、
完全なる自由を得たのだ!」
影武者のお酌で猪口に満たした酒を一気に空けた信玄は、高笑いに繰り返した。
「余は楽しい。
余は自由だ!!」
__音もなく、甲州は恵林寺の天井裏を抜け出した蛇丸は、主君家康の元へ急いだ。
これは大手柄だ。
今、見てきたことを報告すれば、どれだけの褒美に授かれることだろうか…。
それを想像するだけで、ついつい唇がニヤけてしまう__。
とは言え、甲斐の国を出るまでは気が抜けない。
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