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伊賀くノ一 潮
○○
__伊賀のくノ一、潮は見た。
もはや完全に死んだものとされている信玄が、今まさに生きている姿を。
信玄の死が噂されはじめたのが、元亀四年、四月。西暦1573年5月のこと。
信玄は自分の死を三年は世に知られるな、と言い残したとされているが、既にその三倍…、九年の月日が流れている。
今では、未だ信玄は生きているのではないか、などと案じている者など、ほとんど居ないだろう。
その信玄が、信長の元を訪ねて来たところを、潮は、しかとその目で確認したのだ。
天井裏から窮屈な体勢で覗き、まして天井板の節の穴を通した狭い視界ではある。
だがしかし、あれは間違いなく武田信玄その人だ。
無論、信玄は秘かにやって来た。
さながら、幽霊のように__。
突然の、ましてお忍びでの信玄の来訪に、天下の織田信長ともあろう男が戦慄し、凍りついた。
「で…、出た!」
まさに化けて出たと思い、尻もちまでついた。
もとより、信長は信玄が当の昔に死んだものと思っていたのだから、この事態に首をすぼめ、頭を抱えた。
大いにわななく信長は、それでもなんとか細目を開けて、そうしてまた驚いた。
目の前の信玄には、ちゃんと両脚が付いているではないか。
となると、尋ねてみる他なかった。
「本物か?」
信玄は不敵に微笑んだ。
「いかにも」
「そ…、そうか…」
そこは信長である。
すべてを悟った途端に、襟を整え、いつもの表情に戻る。
そうして、何事もなかったように言った。
「生きておられたのか、信玄殿__」
信玄は、もう一度、ニタリと笑って頷くと、信長のすすめを待たずに腰を下した。
信長のすぐ目の前の板の間に、直に胡坐をかいて__。
伊賀者の潮は、徳川の命を受けて信長を見張っていた。
信長には恨みつらみの深い伊賀者だから、隙あらば暗殺でも企ててやりたいところだが、現時点でそれは家康に禁じられている。
よってこの場合、ただ単純な偵察。何か異変があった際には、迅速に報告が出来るように、常に信長に張り付いているのだ。
無論、信長には悟られぬように…。
__そうして潮は聞いた。
信玄による、信長への耳打ちを。
「ご存知であろうが、
余は三年喪を伏せよ、と命じて死んだ。
__と言うことになっておる」
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