伊賀くノ一 潮

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信長は、無意識に動いてしまいそうになる眉を、なんとか意識的に固定したまま、表情を変えずに相槌を打った。 「何故また、そのようなややこしい事をなさった?」 「なぁに。世の中の何もかもが面倒になっての。  戦だ、国盗りだと気をもみ続けることに、つくづく嫌気がさしたのだ」 信玄は言う。 「それで、死んだことにした。  ただ死んでも、つまらんから、  どうせなら影武者を立てて世を惑わせてみようと考えた。  その企みは見事に当たった。  果たして信玄は生きているのか死んでいるのか…。世間は三年もの間、悩みに悩んだ。  その様子を(はた)から眺めていて、余は大いに楽しかった。  頬がニヤけるのを禁じえなかった。  その後、世間が完全に信玄は死んだものと見なすようになってからも、  この極楽は続いている。  なにしろ、余は今でもこうして元気に生きておるのだ。  それだけで楽しゅうてならん」 信玄は、意味ありげな目で信長を見詰めながら、事実、楽しげな声で言った。 「疲れた顔をしておるな、信長殿。  __まるで昔の自分を鏡で見ているようだ。  だが、今の信玄は違う。  この世におらぬことになっている信玄には、何のしがらみもない。  つまり自由だ。  この信玄、これほど自由を満喫したことは、今まで一度もなかった」  そうして、血色良く、活き活きとした頬を緩ませると、信玄は本題に入った。 「いかがであろう、信長殿も自由になってみる気はないか?」 「自由?」 信長は、わざと聞き返した。 もとより、信玄の言わんとしていることは、すぐに理解できたが、あえて相槌を打ったのだ。 「いかにも。  話は簡単、世間に信長は死んだと思わせれば、  それだけで自由は手に入る」  信玄の野太い声を聞きながら、信長は目を閉じていた。深く深く、考えを巡らせているようだ。 その間、唇を緩めたり、歪めたりを幾度か繰り返していたが、やがてゆっくりと瞼を持ち上げて、張りのある声で言った。 「人生五十年__。  それもまた、おもしろいかもしれぬな」  信玄は手応えあり、といった目で聞いている。 「信長なき世を、この目で遠く観察しつつ、何もかもから解放されて、  のんびりと暮らすのも悪くはない」 言いながら、尚も思案し、そして何を思い付いたか、信長は高揚した表情を隠そうともせずに、少年のように弾んだ口調で言った。
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