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女帝
私は家に帰って戸に鍵をかけた。
相手は物理的な肉体を持つものではないのだから、そんなことをしても気休めにしかならないことは分かっていたが、そうしないわけにはいかなかった。
あいつは再び私の目の前に現れた。それも私の部屋の中ではないところで。
私は瞑想を全てこの部屋でやってきた。あいつが現れるのもこの部屋の中に中に限られていた。
それが先程は屋外の、普通に私以外の他人も行き来する住宅街の路地で現れたのだ。
もしかしたら私が思っている以上の力を身に付けつつあるのかもしれない。
今度現れたら、さっきのようにうまく消せるか自信がなかった。
そのとき電話のベルが鳴った。携帯ではない、自宅の電話である。
そちらにかけてくる人物は一人しかいない。年上のガールフレンドだった。
今時珍しいことだが、彼女はいつも家の電話にかけてくる。
もちろん本人は携帯電話というものを持っているのだが、なぜか他人の携帯電話に向かって電話をかけるという行為が好きではないらしい。
私はそのことをとても微笑ましく思っていた。
もし彼女がしょっちゅう私の携帯に電話をかけてくるような女性だったら、私はとっくに彼女と別れていただろう。
私は他人に自分の時間をコントロールされるのが好きではないのだ。
家の電話が鳴っても取りたくないときは取らないし、私が電話を取らないということは電話をかけてきた他人にとっては私は家にいないということなのだ。
そのときの私は電話を取らないわけにはいかなかった。
年上のガールフレンドからだということが分かっていたし、無性に彼女と話がしたかった。
「どうしたの?」
「えっ。何が」
「あなた、すごく真剣な顔して家に入っていったから」
彼女が電話をかけるのはいつも車の中からだった。
私が帰る前からこの近くにいて見ていたのだろう。
彼女は決して自宅から私に電話をかけてきたりしないし、誰か他の人が側にいるときにかけてくることもなかった。
彼女が電話をかけてくるのはいつも車の中に一人でいるときだけだった。つまり、内緒なのだ。私と彼女の関係は。
「何でもないよ。ちょっと仕事でね。難しい年頃の女の子たちだから」
私は女子高で英語教師をしていた。本当はヨースタイン・ゴルデルのように哲学を教えたかったが、日本の高校に哲学を教える学校はなかった。
日本人の女子高生にソフィーのような聡明な生徒もいなかった。
「分かるわ。私も女子校育ちだし。ああいうのって男の人には耐えられないわよ。カオスだし、授業なんか聞いちゃいないしね。可哀想な先生。女の子に幻滅しちゃうでしょ」
「君の娘もいるよ」
担当しているクラスではないが、彼女の娘は私の高校の二年生で、美術部に所属していることを私は知っている。母親に良く似た、男好きのするタイプだ。
「やだ、あんな小娘で興奮するの?」
「三十五を過ぎる前の女性には興奮しないよ」
「そんなこと言っちゃって」
「ねえ、近くにいるんでしょ。早く会いたい」
私は強烈に人肌の温もりを求めていた。現実の世界で現実的に生きている誰かの吐息が立てる音を聞きたかった。
「今日は随分積極的ね。だったら早く鍵を開けてくれないかしら」
彼女はいつの間にかドアの前まで来ていた。
私は鍵を開けて半分扉を開いた。
彼女はするりと玄関の中に滑り込み、慣れた手つきで後ろ手で再び鍵をかけた。
私は激しく彼女を求めていた。両手で彼女の腰を抱くと、そのまま私の方に引き寄せた。
彼女の豊かな胸が、私の肋骨のあたりに押し付けられた。私は心地よい弾力の感触を楽しんだ。
彼女の乳房は若い身体が持つ張りを程よく失い、二人の身体の間に抵抗なく収まる。
私は右手を彼女の頭の後ろに回し、頸に鼻を押し付けた。
思い切り彼女の香水の匂いを鼻腔に潜らせた。女子高生のツンツンした匂いとは違う、落ち着いた匂いがした。
柔らかな初秋の日差しを思わせる、どこか懐かしいような匂いだった。
「甘えん坊さんね」
彼女も私の腰に両手を回し、ぴったりと体を寄せてきた。
そのまま私の首筋にキスをした。彼女の唇は小鳥がついばむように何度かキスをしながら私の顎まで登ってきて、ついに求めていたものを探し当てた。
私はいつまでも彼女の頸の匂いに包まれていたかったが、彼女の唇が求めるものを返してやった。
ヨガとテニスで引き締まった腰回りの筋肉が、出産を経験した女性に見られる緩やかな弛みを落とすまいと必死に支えてくれているおかげで、まるで溶けかけのアイスクリームのような絶妙な肌触りを心ゆくまで堪能することが出来た。
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