ある作家の場合

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 いつもならコーヒーなんて諦め、部屋に戻っていただろう。しかし、この日はなぜか、諦めようとする神津を連れだそうとする、もう一人の神津の方が頑なだった。 「初志貫徹、初志貫徹」  言い聞かせるように呟きながら、神津は早足でいつもの喫茶店に向かう。  もうじき一年も終わる。クリスマスを目前に控えた夜の街は、やかましいくらいに華やかだ。そんな夜の喧噪から無意識に離れようと、いつの間にか早足は小走りに変わっていた――そのせいで、神津は自分が道に迷っていることに気づくのが遅れてしまった。 「……はぁ……ウソだろ?」  知らない路地裏で佇み、神津は溜息を吐いた。自分が見知った街の――しかも通い慣れた喫茶店への道で迷うなんてことが信じられなかった。  この寒い中、知った道を探して歩くことを想像し、アパートを出たことを酷く後悔した。  周りを見回すと、自分がどこかの商店街にいるということはわかった。だが、この街に住み始めて七年経った神津でも、見たことのない商店街だった。こんな場所なんてあっただろうか? 「ん?」  全ての店はシャッターが降りていたが、まだ一軒だけ明かりがついている店があった。近寄ってみると緑色のドアにかかった看板――「喫茶 スカボローフェア」というのが目に入った。 「スカボロー……フェア?」  そういえば昔、そんな歌があった。英語の歌詞だったから、意味はほとんど知らないが……。  神津は店の外観を観察する。白い壁は古いようで、所々塗装が剥げている。それなのに、ドアと看板だけは新品のように綺麗で妙にアンバランスだった。  値段も分からないのに入るのは気が引けたが、この寒い中道を探して歩き回るよりはマシだ。どんなに高くてもコーヒー一杯が千円を越えることはないだろう。コーヒーを飲んで、道を聞く。当初と目的は変わってしまったが、喫茶店ということには変わりない。  神津がドアに手をかけようとしたとき、まるで自動ドアのようなタイミングでゆっくりとドアが開いた。 「いらっしゃいませ」  開いたドアから黒髪が美しい女が顔を出す。右の耳元でまとめた長い髪の横で品のある優しい笑顔を浮かべている。黒髪、黒シャツ、黒のサロンエプロン。そのどれも地味なはずなのに、目の前にいる女が身につけると、目を引くほどの艶やかだった。 「あ、その……」
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