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かつてこの屋敷にはひとりの女性がいた。ここで恋に落ち、子を産み、悩み、笑い、悲しみ、そして最期もここで迎えた。 気づくとさっきまで部屋の中にあった着物が消えて無くなっていた。彼は自分が寝ている間に盗まれたのではないかと思い、心臓の鼓動が早くなるのを感じた。気持ちが動転しながら周囲に目を走らせると、開け放たれた木戸の向こうの庭の中に、光り輝くその着物が見えた。 その赤い着物は、まるでこの夜の月の明かりの中に溶け出して消えていき、再びこの庭で結晶化されたかのような美しさで女に身に付けられ、その美しい絹の生地と織りの文様を光り輝かせていた。その不思議で幻想的な佇まいは、かつての着物の所有者である彼女であると思わせるのに十分であった。赤い着物はそれ程までに自然に彼女に身に付けられていた。 彼はその幻想的な光景に何故か敬いの気持ちになり、自ずと正座の体制で彼女を見ていた。 彼女が動くたびに着物の足元の裾が綺麗に揺れた。その微かに揺れる姿から、彼女のこの屋敷でのかつての様々な思いが感じ取れるような気がした。 月が薄い雲の断片を透かし、その存在の輪郭をぼかしながら光をこちら側へ届けていた。 庭に流れる小川の音は、彼女の事をよく知る友人のように、優しく語りかけているように感じられた。     
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