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「丑の刻参りですか」
「うん、夜の大内裏で打ち込む音が聞こえたんだって。これから宿直だから、夜警がてらちょっと見てこようと思って」
場所は右大臣邸の敦宣が住む対屋。
つぶやいた敦宣に応えたのは、彼の向かいに座した範子だ。
時刻は申の刻。夕食が済み、ひと休憩といったところである。
「丑の刻参りねぇ…」
敦宣や範子より低い声とともに、梁から一匹の蝶がひらりと舞い降りてきた。胡蝶という名を冠した式神は、その美しい翅を閃かせながら範子の肩に留まった。
「でもそれ大内裏で聞こえたんでしょ?」
丑の刻参りといえば、貴船のご神木で夜な夜な行うものとされている。神社でもない内裏で丑の刻参りとは俄に信じ難い。
承知している範子が頷く。
「私も聞き間違いじゃないのかって思ったんだけど、音がした辺りから釘を打ち付けられた茅の人形が見付かったらしいんだよ」
「釘が刺さってたのは人形のどのあたり?」
「身体の真ん中をぶっすりと」
「なるほどねぇ…」
しばらく沈思していた敦宣が顔を上げた。
「わかりました。では、わたくしも共に…」
「ううん、今回は私だけで見てくるよ」
「え、でも…」
既に腰を浮かしかけていた敦宣が虚を衝かれたように瞳を瞬く。範子が気遣いを滲ませて苦笑した。
「敦宣は昨日のあやかし退治で疲れちゃっただろ。様子を見てくるだけだから。私だけで大丈夫」
大内裏を騒がせたあやかし騒動が終息して少しの日が経ったが、未だ残党の影が残っている。
昨晩は敦宣が現れた残党を一掃した。
「君はしっかり休んでね」と範子に言われ、敦宣が微笑む。
「はい、ありがとうございます。範子さま」
仲睦まじく微笑み合う二人の間をひらりと舞い、胡蝶が何気無く聞いた。
「範子。その音ってさ、聞いたのはどこぞのヤツよ?」
「あぁ、頭中将殿だよ。人形を見付けたのもあの方でさ、悪い気にあてられたって祈祷師にめちゃくちゃご祈祷してもらった後も何日か寝込んでたらしいよ。もう出仕されててこの後の宿直も一緒になるんだけどーーー」
カチャン。と、皿が畳に落ちる音がした。見れば、菓子の乗った皿を取り落としたらしい敦宣が青い面で震えている。
「敦宣!? どうしたの、顔真っ青だよ!」
「いえ……少し目眩がしただけですので…」
「あっ、私、悪い気連れてきちゃってる?!」
「アンタに悪い気が寄り付くわけないじゃないの〜」
慌てる範子の上をひらひら舞いながら胡蝶が呆れて言う。
敦宣が額に手を宛て力無く頭を振った。
「いいえ…いいえ…範子さまは何も悪くないのですよ…」
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