第0章 忘却の夜から

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 あまりにも理不尽に、幸せだった生活は唐突に絶たれてしまった。  天から絶え間なく降り続く雨で、煤まみれに千切れた服が不快に重く冷たくなっていく。月明りも隠され闇がうごめく森の中、家屋を食い散らしながら荒れ狂う炎を背に闇雲に走った。 「兄さん!」  前へ前へと、兄が右手を引っ張る。その握りしめられた手も、冷たく感覚が分からない。目に雨が入り視界を濁す。もう片方の手で顔を拭った時、太い根に(つまず)き前のめりに倒れこんだ。 「大丈夫か!」  兄が手からすり抜けた弟の元へ駆けよると、腕を掴んで力ずくで引き揚げる。 「あきらめるな! 僕がついてるから!」  体の芯から震えが伝わってくる。なのになぜか、見上げたその顔に恐怖の色はなかった。 「兄さん、もう――」 「ガキがいたぞ!」  だが弟の震える訴えは背後からの怒鳴り声で最後まで紡がれなかった。黒い幾つもの影が炎の灯りに浮きあがっている。 「行くぞ、立て!」  今までそんな口調で命令された(ためし)など一度もなかった。怒られたことはあっても意志を捻じ曲げるように言葉を投げられたことは今まで、決して。  土や岩を蹴り上げる度に冷え切った足に痛みが走る。自分の足なのに制御しきれず、踏み外し滑る。それでも兄は手を放すことはない。影の声は付かず離れず、一定の距離で心をかき乱す。ただただ走るしかなかった。それも、兄がこうして手を引かなければあの炎の中で既に消えていた命だ。 「来るぞ!」  兄が急停止し弟の体を引き寄せると、背後に振り向き手を突き出した。    その口から、滑らかに詠唱が紡がれる。魔粒子が黒く変色し(うごめ)く。    弟が状況を理解したのと、魔法が衝突し轟音が地面を震わせたのはほぼ同時だった。茫然と逃げていた弟が察知できなかった、魔法発動直前に起こる空間の歪みを兄は見破り、咄嗟に防御魔法を展開したのだ。 「耳を塞げ!」
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