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兄の怒鳴り声に、何を言われたのか理解できなかった。
再び詠唱を口づさむ。それは多数の闇を凝縮させ、すぐそこまで迫ってきていた複数の影を無慈悲に貫いた。
悶絶と呻きが暗闇から沸き起こる。
その中で、微動だにしない兄の顔もまた恐ろしかった。
「【オーリス・クルス――】」
拳を眼前で合わせて兄が口ずさむ。その独特な闇属性最上級魔法の詠唱を聞く度、かつては胸を躍らせていたはずだった。いつか自分もこんな風に高々と詠唱するのだと。だが今感じるのは、ただ一つ。
――恐怖だ。
「兄さんやめて! そんな兄さん見たくない!」
ここで尽きる命ならば、これは一生の願いだ。
「ごめん。でも、これは俺の最後の使命なんだ!」
兄が詠唱を一度止めたその悲痛な訴えが、頭の中で反響した。
「【――ソレスタ】!」
右の拳の中に黒々しく渦巻きながら束が形成される。綺麗に揃えた拳同士を引き離すと右手には漆黒に染め上げられた大剣が出現していた。
泥の中で上げた兄のその姿は、それでもいつものように美しかった。
「そこにいろ!」
兄は剣を一層強く握り直すと未だ迫りくる影等へと対峙すべく猛進していった。
見たくはなかった。それでも目はその光景に張り付いたまま動かない。
大好きだった、憧れだった、誇りだった兄が――人を殺している。
「兄さん、なんで、なんで」
楽しかった。幸せだった。何も他人に恨まれるようなことはせず、ただここで生きていただけだ。それでも――
「どうせこうなる運命だったんだろ!」
足掻いても仕方ない命。それに最後まで抗う兄。
やり直せるなら、逃れられるなら――生まれた時から与えられていたこの枷から。
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