2248年、私の旅

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しかし、思えばそもそも何故私たち人間や意識ある地球の生命は、自他を区別をしてきたのだろうか。全てが一体となり全てが共有化されるこの星の意識のあり方に比べると、私たちのような意識のあり方は、むしろとても奇異なものなのではないかとさえ思える。全てが一体となり、共有化されていることが、この宇宙では普通のことなのではないだろうか。知性が我々の手を離れて広がったこの時代からは、もう争いや憎しみ合いなど、とても想像も付かない。 絡み合い溶け合い、別れ触れ合うこの星の姿を眺めていると、私はだんだんと溶けていくような気がした。油断するとゆっくりとだが確実に私は彼らに取り込まれてしまいそうだった。 彼らの動きはゆっくりとしていて、優しさを感じた。それは優しさそのものとも言えるものかもしれない。何故なら優しさは自他の区別を取り払うものなのだから。 私は地球のことを思った。人類の多くはデータとして再現され、その人格は死ぬことがなくなっていた。身体は必ずしも必要ではなく、身体から解放されて過ごす人々が大多数を占める中、私は生身の身体に面倒な宇宙服とやらをわざわざ身に付け、あり得ない程の不便さを背負いながら旅をしている。私は眠る際にいつも死を想う。何故なら明日の自分と今日の自分は厳密に同じではなく異なるからだ。目が覚めて身体から解放されていたとして、そこに自意識と記憶があるのならそれは自分だ。身体の有無の差こそあれ、それと同じようなことを毎日寝ることで行っているに過ぎない。意識を微分化することで生じる自我は、必ずしもそれが同じ線形上にあることを保証はしてくれない。意識は微分すれば自我を意味するし、積分すれば生を意味する。しかし私には意識そのものは捉えることができない。けれども、もしかしたらこの星の生命体たちは意識そのものとして自らを感じ取ることができているのかもしれない。 どうやらここには私の求める「女性」はいないらしい。私はまた別の星へと旅に出るため、この星を去ることにした。
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